BETTER

 2019年10月29日。20時30分ごろ。

 熱気を持った高温の歓声の中で『STAY BY MY SIDE』が終わってゆく。光のような9人が、ステージの裏へと吸い込まれる。彼女たちの姿が視界から失われ、声も届かなくなったその瞬間から、東京ドームが待ち遠しかった。次のステージを早く見たい。次に会える日への期待を胸に、キャンディーボンのスイッチを切った。

 これが、僕がTWICEに会った、つまりは何物にも隔たれることなく自分とTWICEが同じ空間に存在していた、最後の瞬間である。2月頭に突如発生したお渡し会なるイベントは、正体を明かすことなく幻と化し、当たり前に訪れるはずだった東京ドーム公演は、振り替え先を見つけられぬままに消滅した。「次に会える日」は、これにて真っさらだ。

 

 僕がTWICEを好きになってから、こんなに長い間会うことができない時間が続いたのは、今回が初めてのことである。至極当たり前の感情として、僕はTWICEに会いたいし、会えないという現状を飲み込むために、この気持ちを抑え込もうというつもりも特にない。なにせ、悲しいことに、TWICEという存在は時間的に有限なのだ。そう、TWICEと会えるうちは常に会いたいのである。ただ、我々が「TWICEに会いたい!」とインターネットの隅っこでどれだけ大きく叫ぼうが、世界の景色は本当に何も変わりようがない。これはもう、諦める諦めないという次元を超えた、強制的に受け入れるべき事態であり、強烈な会いたさと、どうしようもない会えなさを抱え込んで、日々暮らしていくしかないのだろう。

 

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 いま、我々オタクから失われているものを端的に言うならば、それは「ハレの日」なのではないだろうか。コンサート然り、接触イベント然り、オタクスタイルによってその好みはまちまちだろうけれど、とりあえず「推しに会える日はオタクにとっての『ハレの日』のひとつである」という主張に、大きな異論は発生しないように思う。

 推しに会える「ハレの日」は、言い換えると特別な非日常だ。そういう特別な日が定期的にやって来てくれるからこそ、特別でない日を暮らしていこうと思える。ひと月先のコンサートという大層な非日常を見据えて、面白いことの起きない日常も過ごしてやろうと奮い立つ。そんなふうに、この「ハレの日」の存在が、少なくとも僕にとっては、何でもないその他の日を生きるための原動力になっているのである。

 もしかしたら、アイドルの皆さんにとっても、ファンに会う日というのは「ハレの日」に当たるのかもしれない。その日のために、見えないところで練習や準備を重ねている多くの時間が、彼女たちにとっての日常である。そう考えると、我々オタクよりも文字通りに、この「ハレの日」のために毎日を送っていると言っても過言ではない。そして、丁寧に積み重ねられた日常は、大勢のファンを前にして披露することでようやく意味を持ち、その空間に居合わせた全員にとっての非日常へと昇華するのだ。

 カムバックをしてくれたり、音楽番組に出演してくれたりと、アイドルとファンが会わずともお互いにとって意味のある出来事というのは、今も少なからず訪れてくれる。これらも間違いなく「ハレの日」ではあるし、画面越しに姿を見せてくれるだけでも十分にありがたいことである。ただ一方で、空間を共にするという最も凄まじい体験が、この世界から消え去ってしまっていることは無視できない事実だ。日曜日はあるけれど祝日がやって来ない、6月みたいな時間が流れていて、日常が湿っぽい梅雨どきの様相を呈しているのである。

 

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 さて、突然だが、僕がアイドルに感じている魅力、もう少し限定的に言えばTWICEに惹かれている理由のひとつは、コンサートやカムバックにおいて強烈な光を差し込んでくれるところにある。普段は抱きようもない気持ちの昂りや、激しい感情の躍動を与えてくれるという点で、他に代えることのできない存在だと思っている。ここに感じている魅力というのは結局、僕自身が日常では得られないものが得られることであって、先ほどまで述べていた「ハレの日」、つまりはTWICEあるいはアイドルという存在が持つ、非日常さに対して見出している価値である。

 この非日常を創り出すという観点から見れば、様々なイベントの開催が困難である現状は、その機能が部分的に削がれている状態である。この前のオンラインコンサートは、映像コンテンツならではの演出も多く、個人的には非常に楽しめる時間だった。ただ、実際行われる予定だったコンサートの代替として満足できたというよりかは、全く別の新しいコンテンツとして楽しめたという印象だ。僕はもともとコンサートの空気感が得意な方ではなかったのだが、コンサートに何回か参戦し、そして参戦できなくなったいま、やはり現場でしか味わうことのできない高揚感があるのだということを思い知らされている。

 

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 しかし、しかしである。

 オンラインコンサートをまだかまだかと待ち焦がれていた数週間の、火にかけられたみたいにじっくりと温まっていくあの感覚は、実際のコンサートのそれと非常に似通っていたように思う。公演後、Twitterのタイムラインに感じた熱気と余韻もそうだった。要するに、特別な非日常であるD-DAYは、つまらないはずの日常を少しだけ特別にしながら近づいてきて、十分すぎる余韻とともにじんわりと去っていくのだ。たとえ実際に会えなかったとしても。

 似た例として、カムバ前の約二週間が挙げられる。呼吸のしやすいあの期間は、日付が変わるとともに新たな写真と新たな映像が降り注ぐ。それを摂取するたび、カムバ前がカムバの本質なのではないかと勘違いしてしまうほどに毎晩はしゃいでいられるし、そしてもはやその毎日が終わってほしくなくて、カムバックが「ついに来てしまう」と思えるほどの価値があることを実感させられる。このような現象が様々な場面で訪れていて、TWICEが近い将来何かをしてくれることが決まっていると、当日だけではなく、今この瞬間から当日まで、当日からその少し先までの一連の時間が、うっすらと輝きを帯び始めるわけである。

 

 というかなんなら、そういったバカでかい「ハレの日」が来なかろうが、小さく心躍る瞬間をいくらでも僕にくれるのがTWICEである。まあ言ってみれば「会いたくても会えない、でもつながっている」わけだ。彼女たちは、隙間時間にvliveで交流してくれるし(本当にたくさん配信してくれるので正直視聴しきれていない)、だいたい週一ペースでTIME TO TWICEを供給してくれるし(おそらく同じ時間の睡眠よりも健康に良いので睡眠時間を削ってでも見るべき)、Instagramの更新なんかまで含めたらもう、常にコンテンツの海の中をとびっきりの笑顔で溺れている状態にしてくれる。

 もっと言えば、何か具体的なモノを観たり聴いたりしなくとも、TWICEのことを考えている時間は僕にとって幸せな時間であり、それはただTWICEを好きであるという事実のみによってもたらされる幸せだ。だから、コンサートやイベントが無い日、いや、開催予定すら無い本当にとりとめのない毎日も、TWICEを好きであるという理由で、もしかしたらほんの少し特別な日と言えるのかもしれない。少しのファンクとソウルで僕はきっと照らされていて、最近の一見何もない毎日が、実は何もないわけでもないような気さえしてくるのである。

   それらしくカッコつけるなら、 『Feel Special』で歌われている「特別な私に変わる」みたいに、自分の暮らしている日々が「特別な日に変わる」わけだ。韓国語にすると似ているのだけど、"특별한 나로 변해" ならぬ "특별한 날로 변해" ってことだ。そしてその理由は、「あなた」(TWICE)がいるからである。この「あなた」は、今の僕にとってはTWICEだけれど、きっと他の誰かも、別の「あなた」のおかげで、少しだけ特別な毎日を過ごしているのだろう。好きなものがあるって、そういうことなのかもしれない。

 

 つまり、コンサートやイベントという場において、TWICEにどぎついほどのパワーで照らされる瞬間が僕にとって本当に重要であると同時に、TWICEを好きでいることで、なんでもない毎日が少し明るくなっていることは、同じくらい大切なことなのではないだろうか。まばゆく撃ち抜く一瞬の光と、淡いながらにずっと照らし続ける光の両方を、彼女たちは発しているのだ。TWICEを好きではなかった世界線の自分のことはわかりようもないから、今の自分とは比べることができないし、それゆえに気づきにくいのだけれど、TWICEを好きなおかげで、少しだけBETTERな毎日が送れているような気がするのである。

 

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 推し、趣味、好きなもの、愛しているもの。表現は多種多様であり、個人によって、あるいは内容によって、それぞれどの表現がしっくりくるかは違うと思うけれど、そんな存在を問われれば、誰しもひとつくらいは何か思い浮かぶものがあるはずだ。

 そしていま思い浮かんだその"何か"は、強烈で特別な非日常を与えてくれたり、些細だけれど日常を少しずつ特別にしてくれたりする、大切なものだと僕は思っている。

 だから、好きだと思えるものを新たに見つけられることは、ときにはとても幸せなきっかけであり、また、愛を向けていた存在を失ってしまうことは、もしかしたらその人にしか分からない深い悲しみを纏う出来事かもしれない。

 会うことができなくても、永遠に会えなくなっても、どんな形であろうと、好きなものと向き合えた時間はきっと、その好きなものと出会えていなかった世界線よりも、特別で幸せに過ごせているのではないだろうか。

 最後まで読んでくれた皆さん、ありがとうございました。

 

 

 僕の推しに特別な時間と幸せをくれた、一匹の子犬に捧ぐ。