応援は、剣か盾か

 今からここでするのは、『ポケットモンスター ソード・シールド』によって改変、あるいは刷新された、アイドルを見る心持ちについての話である。同日に公開したもうひとつの記事を前提としていることを、はじめに予め記しておく。

clamperl.hatenablog.com

 文章をふたつに断絶したのは、ひとつの記事としてあまりに長くなりそうだったというのと、読んでみようと積極的に思ってくれる人にだけ読んでもらうくらいがちょうどいいような、比較的閉じた内容になる予感がしたからである。もう一方の文章は、ところどころに思考の断片を挟んだものの、僕の中にあるアイドルに関する諸々が、ポケモン新作のストーリーの中で偶然リンクしたという開けた言及にすぎない。つまりは、確認と参照、ただそれだけである。だから、ここではその先の話をしたい。影響と変化、とでも言うべき部分について書いてみようと思う。

 

 

 好きな人との共通点が見つかることは、一般的に嬉しい事象なのではないだろうか。同じ映画を見ていた、同じ小物を持っている、好きな食べ物が同じだった。ほんの些細な共通点でも「おっ」と思えるのが、好きという気持ちなのかもしれない。逆に、好きな人が行っていた店に自分も行ってみる、というように、自ら共通点を作ろうとする場合もあるだろう。

 僕はアイドルが好きだ。今現在の話をするならば、特にTWICEが好きだ。彼女たちのことを推している。だから、TWICEとの共通点や共感できる出来事に遭遇すれば、やはり嬉しく思う。しかし、である。共通点を見つける一方で、僕はどうしても世のアイドルとは共感できない点を抱えていて、つまりそこはどうあがいても嬉しさの発生しえない黒点であった。そう、「アイドルになりたい」という気持ちである。

 アイドルを推すことにそれなりの時間をかけてきた僕が言うのもどうなのかという話ではあるが、僕は「アイドルになりたい」という気持ちが分からないまま過ごしてきたのだ。推しがあらゆる人生の選択肢からアイドルの道を選び、僕の前に現れてくれたことには感謝している。例えば、TWICEに関して言うならば、努力ができることも含めてあれだけの才能を持つ彼女たちには、間違いなく他の道も選べたはずなのだ。だからこそ、感謝しているとも言える。しかし、それではなぜアイドルになったのか。そこが僕には分からなかった。そういう気持ちが存在することは理解できるが、正直共感できなかったのだ。

 おかしな話に聞こえると思うが、ポケモンをプレイしたら、その気持ちをようやく少し覗き込めた。かもしれない。これがひとつめの変化だ。ガラル地方というパラレルワールドで、強制的に観衆の目が囲うステージに立たされることで、自分の知らないスイッチが押されたような感覚があった。先の文章にも書いたように、主人公はまさにアイドルのような立場なのである。声援を背中に受ける高揚、自分の言動で歓声がわく痛快感、応援してくれる人が増えていく嬉しさ。緊張も相まった、心地よいだけではない心地よさを、ストーリーを進めるほどに僕は気づけば求めていた。

 ポケモンは子どもも遊ぶゲームである。というか、基本的には子どもが遊ぶことを前提に作られていると思う。だから、僕が負けることなどそうそうないし、ひたすらに勝ち進んで道を拓いていける。そのような敗北の確率がおよそ低い状況を、厳しい世界で戦い抜くアイドルと比べてしまうのは失礼な話である、と僕自身も思う。これで何かを分かったつもりになんて一切なれないし、せいぜい類似した方向性の感情を抱ける場面を初めて経験した、という程度の話である。それでも、以前に比べればだいぶいい。到底共感には満たなくとも、僅かばかりの嬉しさがそこにはあった。ゲームの世界限定で持つことのできたこの感情を、もし現実でも抱けたら。僕が想像できる範囲のギリギリ端っこに、その気持ちはやっと引っかかったようだった。

 

 

 より物質的な応援の話をしよう。応援する気持ちではなく、応援する言葉でもなく、応援する声の話である。アイドルオタクの世界、に限定されるのかはよくわからないけれど、少なくとも僕たちの世界にはコールや掛け声と呼ばれるものがある。TWICEを推している身なので韓国でのコールについても見てみると、どうやら韓国語では"응원법"と呼ばれているらしい。直訳すると"応援法"である。まさにあれは、応援するための声なのだという位置づけがわかる。

 どうやら応援するための掛け声らしいし、なぜか公式から提供されているから覚えてみるか。韓国の音楽番組でファンの大声が響いているのは見ていて面白いし、自分もあんな風にやってみたい。ステージのTWICEにも声を出してと言われる。TWICEに逆らうことなく曲に合わせてコールをすると、なるほど楽しい。この程度の動機だけで、特に深く考えることもせずに、ひとつの文化として僕は"応援法"を受け入れていた。

 大きな声で応援されたり、局面に合わせたコールが聞こえたりするのは、素朴な感想として楽しい。今作をプレイしたおかげで、この楽しさもまた初めて出会うことができた感情である。そして、BGMに応援する声が混ざるだけでなぜか心持ちが変わるという経験は、コールが"応援されている"という実感を与える要素であり、裏を返せば"応援している"という意思を伝える要素であることを示していた。 

 ライブやコンサートは、画面を隔てずにパフォーマンスを受け取ることができる特別な場だ。それと同時に、応援する側の人間の声が、応援される側の人間に聞こえるという意味でも特別な場であることに今さら思い当たったのである。僕はあの場でパフォーマンスを受け取るだけではなく、空間を共にすることで「応援しているよ」という意思表示を受け取ってもらっているのだ。「ONCEの大きな声が届いて嬉しかった」といったMCを、特に疑うこともなく、かと言って納得するでもなく、キャンディーボンを振りながら適当に呑み込んでしまっていたけれど。物質的な応援の話、と最初に言ったが、僕が応援する声が物質的に推しまで届く場面は、僕の声が揺らした空気の振動が彼女たちの耳に伝わる機会は、あの場にしか存在しない。

 というか、普段から届いてしまったら、考え込みすぎて言葉が出なくなりそうだ。全て届かないと高を括るのも、それはそれで過ちを犯しそうな考え方だけれど。まあ、オタクは滅多に声が届かないくらいがちょうどいい。僕はそう思う。

 

 

 最後に書いておきたいのは、印象に深く残ったチャンピオンの言葉にまつわる変化である。引用をここに再掲する。

  『いいかい? 彼ら 観客は どちらかが 負けることを 願う 残酷な 人々でも ある! そんな 怖さを はねのけ ポケモントレーナーとしての すべてを チームとしての すべてを だしきって 勝利を もぎとるのが オレは 好きで 好きで たまらない!』

 自分の好きなものに対して、比較という手続きを作用させるたびに、心のどこかに影が落ちる感覚があった。少し前にツイートしたかもしれないが、音楽番組の賞レースですらそうだった。どうしても積極的になれない。それに対して付与した自分なりの説明は「競争が好きじゃないから」であった。この説明に間違いがあったわけではないが、核心に迫れてはいなかったという気が今はしている。

 僕が感じていた影の正体は、おそらく"負けることを願う残酷さ"だったのだろう。言葉にされることで思い当たった。複数のものを比較するという行為は、そのうちのひとつを上に押し上げることと、別のものを引き摺り下ろすこととが同義になる。もちろん、自分の好きなものがより高く評価されることは嬉しい。その感情は確かに有している。ただ、それ以外の感情が頭をもたげるせいで、どうにも割り切れない。本当に正直なところとしては、「勝とうが負けようが好きなものは好きだしな」と勝負から目をそらしてしまう場合が多いのだけれど、この割り切れなさについての手がかりを得たことで、もう少し考えてみようと思った。

 僕はTWICEが好きだ。だから、選ぶことを強要された際にはTWICEに票を投じるだろう。一方で、現時点では絶対的に思えるTWICEが好きという状態は、偶然によって引き起こされたものだとも感じている。つまりは、どこかの歯車がずれてしまい、推しに出会えていない世界線だってあるはずなのだ。歯車のずれ方によっては、別のアイドルを好きになっていた可能性すら否定することはできない。そしてその世界線で好きになっているアイドルは、僕がいま票を投じなかった、負けることを願ったアイドルかもしれないのである。そのアイドルに対して、あるいはそのアイドルを応援しているファンに対して、負けることを願う責任を僕は持てているのだろうか。

 「餃子とペリメニのどちらが好きですか?」と尋ねられたとしよう。突然餃子の話をして申し訳ない。ちなみにペリメニとは、水餃子に似たロシア料理である。ペリメニを食べた記憶が特にない、なんなら聞き覚えすらない場合、この問いに対しては餃子と答えるのが自然だろう。日本人に尋ねることを想定すれば、餃子という回答の割合が高くなりそうな質問だ。ではその場合、この質問と回答は、比較として成り立っているのだろうか。もちろん餃子は美味しいのだが、ここでペリメニを選ばないのは、好き嫌い以前に立ち塞がっている"無知"が理由である。美味しさを判断する前に、馴染みの深さで餃子と答えているに過ぎない。単純な食の好みで言えば、まだ見ぬペリメニだって美味しいかもしれないのに。

 好きなアイドルのことは、他のアイドルよりも詳しく知っている。もっと言えば、僕が他のアイドルについて知っていることはかなり限られている。だから、好きなアイドルに投票するのは、餃子を選んでいるようだと感じるときがある。比較をするための十分な情報を持たずに僕は"選んでいる"のだ。その行為には"選ばなかった責任"が欠けている。何かを比較してひとつを選ぶことは、選ばなかった残りのものに敗北を与えるという残酷な行いであるのに、その残酷さに対して僕は無責任なのだ。好きなアイドルに費やしてきた時間、重ねてきた思い、紡いできた言葉、たくさんのものがその背景にはあるし、餃子の例のように知識量だけが選択のためのファクターであるとはもちろん言わない。それでも、結局僕の中にはうまく濾過できない無責任さが沈殿する。

 多くの場合、僕の行動は直接勝敗には影響しない。僕の投票が無くても結果は変わらないだろう。つまり、これは全て僕の中の問題だ。だから、誰かにこの考え方を強要しようなどという気もさらさら無い。というか本来は、好きだから投票する、だけでいいわけで、結果を見据えるならばむしろそうあるべきなのだ。わざわざこねくり回さずとも、推しに対する恩返しという明快な捉え方もあるし、結果発表の「TWICE!축하합니다!」はやっぱり嬉しいし、せっかくならスピーチも聞きたいし、何より推しが喜んでいる顔を見る時間は幸せだ。でも、だからこそ、比較という過程を踏んだその先にこういった感情が存在するのなら、多くのアイドルの中から好きなアイドルを選ぶ意味を、推しを推すことができている世界線にいる意味を、僕はもっと考えたい。考えたうえでもう一度「勝とうが負けようが好きなものは好きだしな」にたどり着ければ、それはそれでひとつの答えとして今より自信を持てる気がする。

 

 

 応援されることは、人々の前に立とうとする理由のひとつであり、そのまま立っていられるように守るものなのかもしれない。応援することは、好きなものを信じて押し上げる行為であり、ときに応援している対象以外を攻撃しうるものなのかもしれない。

 今の僕には断定的な口調で語れるものは何もなくて、だからこの文章も結論を欠いたものになる。何かと考え込んでしまう性質のせいで、たまにこうやって身動きが取れなくなるのだけれど、この話に限らず、そもそもオタクの感情は折り合いのつけようもない矛盾にあふれている。推しが幸せならオタクは幸せと言うけれど、オタクの享受する幸せの多くは推しの努力と苦労によるものなのだ。とはいえ僕には何もできないから、とりあえず推しへの感謝だけは忘れないように人生をやっていく。

 こんな矛盾を抱えながら、今日も明日もオタクとして暮らしていこうか。だって、好きなものは好きだしな。