I'm drunk in you.

 水道橋駅の改札をくぐり抜けて、東京ドームを見上げた視界に広がる大勢のONCEの後ろ姿は、すぐそこに本当にTWICEが存在するのだ、という事実を僕に一瞬で突きつけた。

 逆に、そうやって人だかりを目にするまで、TWICEと会えることへの実感は得られなかったし、それは2年半というブランクがその実感の抱き方を忘れるほどに長かったことを意味しているのかもしれない。本音を言えば、自分でも気づかぬうちにあの頃の熱量を失ってしまったのかと、いやに落ち着いている自分自身を心配していたのだが、失ったのは熱量そのものではなく熱量の自覚の仕方だったようだ。東京ドームを目指すONCEの隊列が、AEDのように僕の心拍数を取り戻してくれて、ようやく水を得た魚、もとい現場を得たオタクへと全身のモードを切り替えることが叶った。You're my heart shaker.

 そうして僕自身も大勢のONCEの一員となり、東京ドームのゲートに向かって歩みを進めていると、興奮した様子の人々から揚力を得たようで、見事なまでに浮き足立ってきた。そもそも「人混みをかき分ける」という行為自体がかなり久しぶりであり、かつてのそれ以上に強烈な非日常を感じさせる。現実味とは厄介なもので、あまりに普段通りでも、あまりに日常からかけ離れていても、どちらにせよ薄れてしまう。だからだろうか、TWICEの現場でしか出会わない多種多様な人間の中を流されながら、なんだか白昼夢を見ているような気分にすら陥った(ところで、Dreamday以来の東京ドームでDaydream [白昼夢] という洒落を思いつきました)。

 

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 馴染みのONCEと合流し、Twitter以外の感情の行き場をようやく用意できたところで、いよいよ東京ドームに入場した。手荷物検査なんて一体いつ以来だっただろうか。そういえば、最初に感染対策ゆえに消滅した(そして最近そのまま行方を眩ました)イベントは、東京ドームシティでの『&TWICE』お渡し会だった。その次が、TWICELIGHTSの東京ドーム公演だった。ここまで来ると、アイドルではなくただのオタクなのに、東京ドームは実質「約束の地」と化していて、入場できるというただそれだけで何か尊い気持ちにさせられる。

 電話が通じにくかったり、飲み物を買うだけで列を成さなければならなかったり、あらゆる場面で周りにいる人間の多さと、人間が多いという状態の懐かしさを感じた。正直、ONCEという集団を目にするたびに、属性的にもマインド的にも自分は少数派だという自覚や、どこか水が合わないような居心地の悪さがあった。しかし、その群衆を眺めながら「あらゆる人種が揃っているなぁ」なんて話していたら、ある意味ここに多数派など存在せず、全員が少数派なのではないかという気づきを得た。どこか別の場所で出会ったとしたら水と油のように思える人でも、同じくTWICEを好きでいられるというのは本当にすごい。水にも油にも馴染むって、界面活性剤か?(伝わらない例え)

 開演時刻が近づき、お互いの幸せな時間を願ってから一人になった後、ドームの端のほうに立っていた売り子のお姉さんからアイスコーヒーを購入した。なぜだろうか、アイスコーヒーは他の飲み物とは違って、まずコップに氷を入れ、そこに魔法瓶から注ぎ込むというスタイルで販売していた。その少しだけ時間のかかる作業工程のおかげで、いよいよ落ち着けなくなりつつあったところに、お姉さんとのお話し会が始まった。「もうすぐ始まりますねー」「そうですねー」「ミルクやガムシロップは要りますか?」「大丈夫です」「300円になります」「ICカードで」「ありがとうございました、楽しんできてください!」「はい、ありがとうございます!」

 本当にありがとうございました。コーヒーを頼んだ辺りでようやくかつての感覚を思い出したんですが、会場に暗闇が訪れるまでのこの時間がいちばん落ち着かないので。

 

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 感情が込み上げてきて涙を流す動物は人間だけだそうだが、その仕組みをコップの比喩を用いて説明することがある。心の中に「感情のコップ」が存在し、さまざまな出来事で生じた感情は水のようにその中に蓄積されていく。そして、コップが溢れたときに人は涙を流す。この説明の科学的な妥当性はさておき、「胸がいっぱいになって泣き出す」といった経験上のイメージとは合致するため、感覚的には理解しやすい説明という気がする。

 例えば、映画や小説など、物語に触れた際に感動して泣くという体験を、このコップの比喩に沿って考えてみる。この場合は大抵、登場人物に感情移入したり、主人公を自分と重ね合わせたりして泣くわけで、そうするためには一度自分自身の日常からは離脱し、物語に没入する必要がある。となると、物語が始まると同時に、自分が日常で使っているものとは別の、その物語専用の空っぽのコップを渡され、物語が進むにつれてたまっていく感情の水をクライマックスで溢れさせている、ということになると思う。

 一方で、卒業式で泣くとか、大会で優勝して泣くとか、その類の感動というものは、自分の人生に足をつけたまま涙を流しているという点において、先ほどの物語に触れた場合とは性質が異なる。つまりは、自分が人生において普段使いしている「メインのコップ」にたまった水が、何か特別なタイミングで溢れているのである。ありきたりな表現をすれば「人生の主人公は自分自身」みたいな話になってしまうが、何かに投影するでもなく、こうやって自らの人生に対して直接的に泣ける体験というのは滅多にないように思う。

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 自分の感情を自覚する間も与えられずに涙を流したあの瞬間、暗闇にすっと包みこまれたばかりの客席で "The Feels" のイントロを聴いたあの瞬間を振り返ってみると、僕はその「滅多にない」体験をしたのだと思っている。TWICEに会えなかった2年半という時間の中、僕の日常はTWICEと共にあり、そうやって抱いた感情は「メインのコップ」に滴り続けていた。たまりにたまっていた感情は溢れる機会を得られなかっただけであり、そんな中で迎えたドーム公演なんて、表面張力がギリギリ支えてくれているに過ぎないひたひたのコップを持参して臨んでいるようなものである。だから、開演0秒後で流れ出た涙は、他の誰かの感情に共感したのではなく、自分自身が過ごしてきた時間に対して「自分のまま泣けた」体験であり、紛れもなく人生にとって特別な瞬間だったと思えてならない。

 加えて涙の呼び水となったのは、きっとその他大勢のONCEの存在だろう。一人でばかり聴いていたその楽曲を、TWICE本人たちと一緒に、そして自分と同じようにTWICEを好きなままこの日を待っていた大勢のONCEと一緒に共有できているその時空間は、あまりに懐かしくて強烈だった。数時間前に改札を出た瞬間と同じく、数えきれないほどのONCEがキャンディーボンを振りながらステージに視線を注いでいるというその状況こそが、自分の視線の先にTWICEが立っているという夢のような事態に現実味を与えてくれた。もしかしたら、自分が抱いてきた感情と、そこにいる全員のTWICEを想う感情の圧に揺られて、コップは溢れるどころかぶっ倒れたのかもしれない。

 TWICEに会える日というのは当たり前に特別だけれども、TWICEに会えない日々も、好きでいることによって少しだけ特別だと僕は思っている。それに、会えない日々とは「会える日を待っている日」なのである。僕にとってTWICEは、そういう風に日常、もっと言えば人生自体を常に少しばかり彩ってくれている存在であり、だからこそ、TWICEと会ったその瞬間、自分の中に流れた時間に対して泣けたのだと感じる。

 

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 "What is Love?" で泣き、"Dance the Night Away" でも泣き、目に焼き付けたい曲ほど視界が水中になってしまうというオタクジレンマと戦いながら、幸せな時間を過ごした。幸せとは何かを思い出す時間を過ごした、と表現するのが適切かもしれない。もちろん、一曲一曲それぞれに感じた想いがあったのだが、この想いはその瞬間だけでなく、その曲を聴いてきたこれまでの各瞬間の総和であって、ここでは語りきれないため割愛する。Twitterを見れば、きっとたくさんのONCEが曲に対する感想を呟いているはずで、僕個人ではなく、そういった想いの集合体を眺めることが、東京ドームの残り香を感じるのに最も適したやり方だと思う。

 とにかく、TWICEから発せられるエネルギーの波に呑まれながら、自分自身の涙にも溺れるような、そんな体験だった。ルーレット、ステージの下に沈んでいかないで。

 

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 東京ドームから押し出され、すっきりと空っぽになったアイスコーヒーのコップをゴミ箱に収める。人々の間を流されながらも、なんとかONCEとの再会を果たして、感想を言ったり言わなかったりしながら、少し離れた御茶ノ水へと向かった。

 時刻と情勢を理由にどこの店にも入ることができず、屋外に雑然と置かれたテーブルに座って過ごした時間は、つい先ほどまで自分の周りに広がっていた空間への信じられなさと、ずっと待ち望んでいた日が終わっていく切なさに満ちていた。特別な夜を終えた後の、明日が来るまで流れ続ける「残りの夜」は、普段の日常的な夜と比べてよっぽど、その日が終わることを強く意識させてくる。たまに口を開いて出てくる言葉も、頭からはみ出してしまった余韻でしかなくて、すぐに夜に吸われて消えていく泡沫のようだった。bubbleよりもだいぶ泡。

 想いを語りきれないというより、語りたいことをまだ言葉として自分の中にすら飲み込めないまま、別れを告げて一人になった。静かな改札をくぐり抜け、非日常から日常へと再び運び出される。最高に満ち足りたような、それでいて何かを掴み損ねているような、イベントの帰り道というのは、毎回こんな気分だったことを思い出す。

 さようなら、御茶ノ水

 

 TWICE、また会う日まで。