ティーカップ・エモーション

 何かを好きになる気持ちがティーカップのようだったらいいのに。そう思う瞬間は、自らの"好き"に連なって現れるどうにも扱いづらい感情を自覚したタイミングで訪れる。

 ティーカップという代物は、紅茶と共存するために着飾りながらも、なかなか理にかなった機能性を有している。100度近い熱湯を茶葉に注いで淹れる紅茶は、そのままでは熱すぎて飲むのに適していない。だから、テーブルに置かれてからは少しばかり冷めてほしいわけで、その目的を果たすために、口は広く、縁は薄く、底は浅く作られている。これらの特徴は、なるべく多くの光を通し、紅茶の色を引き立たせるためにも一役買っていると言う。

 加えて、ティーカップの底には模様が描かれている場合がある。紅茶が透明であるがゆえに、中身が入った状態でも底まで見えるから模様が意味を持つというわけだ。逆の例を挙げれば、コーヒーカップの底に模様が描かれることはない。見えない底に何かを書くのはラーメン屋くらいだろう。

 今後の人生で披露する場所の乏しそうな知識を語るのはこの辺までにしておいて、ティーカップのような"好き"とは要するに、広い入り口からふらりと出入りできて、自分でなんとなく「ここが気持ちの上限だ」と浅めの底が見える気持ちのことである。そういうポップでカジュアルな感情が"好き"だったら楽かもな、と僕はときどき思わされる。

 裏を返せばこういうことだ。僕が抱いてしまう何かを好きになる気持ちは、一度入ったらそう簡単には抜け出せない、底なんてまるで見当たらない感情なのである。もしかしたら、僕みたいな人間のことを、世間ではオタクと呼ぶのかもしれない。

 

 好きなものを新たに見つけた瞬間の、全身の血液が沸騰するような高ぶりは、これまでに何度か僕に襲いかかっている。その経験則で語ると、どうやらあの感情は恐怖を引き連れてやってくるように思う。これも全て、好きになってしまっては後戻りができないことを自覚しているからだ。うんと底が深い世界にドボンと飛び込む一瞬が怖くないわけもなく、良くも悪くもここで人生変わるかもな、という直感が身体を震わせるのである。

 だから僕は、誰かに勧められたものに「はいそうですか」とノータイムで手を伸ばすことができない。しかも、その誰かが自分と趣味の合う人間であればあるほど躊躇う。面白いゲームを教えてもらっても、やり込みたくなったら日常が崩壊しちゃうよ、とGoogleを開く親指はどうにも重たい。誰かからオススメのアイドルの名前を聞いても、めちゃくちゃ可愛いメンバーがいたらどうするんだ、と恐る恐るYouTubeのリンクを押す。なんならよくわからないけれど再生しても細目で見てしまう。好きになることは怖いことなので。

 勘違いしないでほしいが、好きなものが多いこと、あるいは好きなものが増えること自体はいいことだと思っている。もちろん、多くのものを追いかければ、それだけお金や時間がかかることになり、物質的な損失は生ずるだろう。しかし、好きなものに囲まれることで浸み出す幸せは、人生で最も大切なものだとすら僕は思っている。というか、そう強く思っているからこそ、何かを好きになる気持ちが恐ろしいのである。今まで気にも留めていなかった存在に、ある日突然いきなり人生の全体重を預けはじめるなんて......狂ってない?大丈夫?何かを好きになったら最後、僕はそれを好きになる以前の世界には帰れない。

 もう少しだけ付け足そう。どんなものでもこの世界から突然消えてしまう可能性はゼロではない。例えばアイドルであれば卒業や解散がある種の消失にあたるわけだけど、好きなものがたった一つで、その唯一の好きなものが失われるなんて状況が起きてしまったら、それは自分の消失と同義になってしまう気がする。そう考えると、やっぱり"好き"はたくさん持っておくに越したことはない。......はずなのだが、それはつまり、好きなものを増やすことは、好きなものが世界から消える悲しみや、好きなものが傷つけられる苦しみを背負う確率を高める行為とも言い換えられるのである。自分の大切なものが増えることにはそれ相応の重圧があり、しかも減らすことができないとなれば、僕はその不可逆性の開始地点で、幸せと同時に恐怖を抱かざるを得ない。

 

 さて、好きな気持ちが色づき、恐怖との向き合いも落ち着いてきたところで、面倒なオタクである僕の頭の中にはもう一つの扱いに困る感情が注がれ始める。それは、なんでもっと早く出会えなかったのだろう、という後悔だ。

 先に書いた話の後だと完全に言動が矛盾しているのだが、いざ好きになると、一秒でも早く知っておきたかったという自責の念が顔を出す。特定のタイミングで知ったからこそ好きになれたというケースも存在するから、早ければ早いほどいいというような単純さではこの感情を語ることはできない。それでも一方で、頭を抱える気持ちは抑えられないのだ。

 今から書くことに共感してくれる人がいるのかはわからないけれど、いるのだとしたらぜひともお友だちになりたい。何かを好きになった直後の僕の心の中には、「僕が好きになった瞬間以前の歴史を全て知りたい」という思いが、ぶくぶくと音を立てて立ち現れる。ずっと昔から好きだったとしたら持っていたはずの知識を網羅したい、あるいは、好きになったその存在が歩んできた道のりを自分も辿ったうえで好きでありたい、そういった気持ちだ。愚かな自分のせいで流れ落ちてしまった"好きだったはずの時間"に抗おう、過去を取り戻そうという、これまた愚かな試みを、義務であるかのように自らに課してしまうのだ。もっと早く知りたかったという後悔は、この辺りの感情に強く根差しているのではないかと僕は考えている。

 そう考えると、韓国のオーディション番組というシステムはなかなかに優しい。視聴者全員を新たな"好き"のスタート地点に並べてくれる。歴史の無い状態である存在を好きになれるというのは、その存在と同じ時間軸を一から自分の足で歩んでいけるということなんですよね。なんて素敵なんだろう。後悔のない、真っ新な"好き"を生む場所なのかもしれない。

 漫画を読むなら1巻から読みたいし、ドラマはシーズン1から見ておきたい。これらに関しては理解してくれる人が多いと思うのだが、言ってみればその延長線上にある感情なのだと思う。好きになったのがアイドルであれば、リリース済みのCDを全て買ってしまったり、公式の動画を片っ端から再生し始めたり、Wikipediaを隅々まで読み込んだり、こういったことをついやってしまう。そして、そんな終わりの見えない行為を重ねるほどまた好きになり、気づけば自分が飛び込んだ水面がずっと遠くに思えるくらいの、光の届かない水深まで進んでいるのだ。まあそこまで来ればもう、新たな幸せが始まっているわけだけど。

 

 沸いたお湯が放っておけば冷めるように、好きになってからある程度の時間が経てば、過去形の「好きだったもの」にその対象を移動させられる人は少なくないのかもしれない。でも僕はそうではなくて、一度好きになったものはいつも現在進行形でそこにいて、どこまで好きになるのかという未来もわからず、揺さぶられながら暮らしている。

 何かを好きであるという状態を、うっすらとした香りのように身に纏うことができる人もたくさんいるのかもしれない。ただ、好きだと思ったものには己の核まで注ぎ込み、全てを飲み干さんとばかりに奥深くまで執着してしまう人が、僕の他にもいると信じたい。

 何はともあれ、この"好き"とかいう制御不能のバカでかい感情のせいで、僕が暮らすこの日常は、どうしようもなく不安だったり、とてつもなく幸せだったりするのである。ティーカップ・エモーションを抱けない僕は、コーヒーのように底の見えないつややかな漆黒の世界に、今日もひとりで浸っている。