audition

 僕にとって、オーディション番組を見ることは、なかなかにしんどい。

 

 その理由はいたって明快で、オーディション番組が、純度100パーセントの後味の良さを感じさせてくれるコンテンツではないからである。

 具体的に言うと、参加者の一部が途中で脱落したり、あるいは最終的にデビューすることができなかったりと、バッドエンドを迎える瞬間を目の当たりにさせられる。そしてそのバッドエンドは、デビューメンバーを決定するというオーディション番組の機能に鑑みると、ほぼ確実に避けられない結末なのだ。

 番組が進むにつれて、程度の差こそあれ、各参加者に対して何かしらの思い入れ、もっと言えば、好きな気持ちというものが芽生えるものである。僕個人の考えとして、好きだと思える対象が増えることは、一般的にいいことだと思っている。だから、オーディション番組を見ることで、誰かを新たに好きになること自体は決して悪ではない。ただ、そうやって好きになった対象がバッドエンドを迎えるとなると、また話は変わってくる。好きになったばかりに、残酷な結末に苦しまなければならなくなるのだから。ロミオとジュリエットのごとく、いや、この場合だと正確にはロミオの一方通行なわけだが、こうなるくらいなら出会わなければ良かったと思ってしまう。

 もちろん、特に好きになった参加者が、最終的にデビューメンバーに選ばれたとすれば、それは非常に喜ばしいことである。デビュー後も応援しようと思うだろう。しかし、美味しいところだけを味わうことを、オーディション番組は許してくれないのである。さらに恐ろしいことに、特に好きになった参加者がデビューしてくれる保証など、最終回を迎えるまでどこにも存在しない。

 しかし、Nizi Projectは、その避けられないはずのバッドエンドに、一筋の希望を与えてくれるオーディション番組だったように思う。というのも、デビューの人数が最後の最後まで決まっていなかったからだ。Part2だけに注目するのであれば、参加者全員がデビューする可能性が残された状態でオーディションが始まり、進んで行った。これは、見ている僕にとってだけではなく、参加者たちにとっても、良いシステムだったと個人的には感じている。

 

 アイドルのオーディションに限らず、一般的に競争をするとなると、そのやり方には大きく二つの基準の与え方がある。絶対的な基準と、相対的な基準だ。

 絶対的な基準というのは、ボーダーラインが定数として設けられているような基準である。わかりやすさのために試験での合否を例にとると、「80点以上の人が合格」というルールが定められている状態だ。自分が合格点に辿り着けるだけの努力をすれば、必ず合格できる一方で、周りの人よりどれだけ点数が高くても、合格点に到達していなければ何の意味もない。

 もうひとつの相対的な基準というのは、ボーダーラインがその競争に参加している人の中での位置づけによって決まるような基準である。同じく試験での合否で言えば、「上位30%の人が合格」というルールのあり方である。個人の出来が悪くても、周りの出来がもっと悪ければ合格する反面、自分がどれだけ死ぬ気で頑張ろうが、周りに負けてしまったら合格することはできない。

 

 最初に言ったように、そもそも見ることに抵抗があるという理由から、僕はほとんどオーディション番組に触れてきていない。だから、見ていない状態での偏見のような語り方になってしまい申し訳ないのだが、多くのオーディション番組は、上にあげた二つの基準のうち、相対的な基準を設けているという印象を持っている。

 デビュー人数があらかじめ決まっている、例えば16人中7人がデビューできる場合、参加者の中で上位7位に入ることがデビューの条件である。嫌な言い方をすれば、自分以外の9人を蹴落とすことでデビューできるのだ。

 どれだけ実力が高くても、自分より実力が高い参加者が7人いればデビューできないし、そこまで実力が伴わなくても、自分より実力の低い参加者が9人いればデビューできる。相対的な基準はそういう理屈で成り立っていて、蹴落とすという言い方をしたことからもわかるように、基本的には、参加者間でのライバル意識が強まる方向に傾く形式である。

 

 今ここで言っている16人中7人という話は、僕がNizi Project以外で唯一見たことのある、そしてあのTWICEがデビューした、SIXTEENというオーディション番組での実例である。最終的にはデビュー人数が変更されて9人となり、現在のTWICEがあるわけだが、当初は7人がデビューメンバーに選ばれる予定であった。全員がJYP練習生ということもあり、実力がある程度保証されている状態だったことから、このような形が取られていたのだろうと推察されるが、Nizi Projectと比較すると、そこに漂う空気はどこか重苦しいものだったと記憶している。

 これに加え、ネックレスという形でデビューの権利が可視化されており、7つのネックレスを参加者が奪い合うという、恐ろしいシステムが導入されていた。参加者どうしがタイマンで対決し、勝者が敗者のネックレスを奪い取るというシーンは、相対的な基準、およびライバル意識の真髄であるように思える。

 

 そのSIXTEENから5年の歳月を経て行われたNizi Projectでは、この絶対的な基準と相対的な基準が評価システムの中に織り交ぜられている。

 SIXTEENと同様の、相対的だと分類される基準は、各ミッション終了時に発表される勝敗、および個人順位である。チームミッションの場合は、パフォーマンスの相対的な比較で勝敗がつけられるし、個人順位は参加者の相対的な序列を明示したものである。たび重なる順位の発表は、SIXTEENでも行われていなかったことであり、参加者の負担は大きかったはずだが、自分の位置付けがわかることは、結果に対する納得感をもたらしていたように思う。また、順位づけに関連して、最下位に2回なったら脱落するというPart2でのルールは、他の参加者に負けるという相対評価が直接的にバッドエンドにつながるという、なかなか冷酷な決まりである(とは言え、回が進むたびに次々と脱落者を生産していくSIXTEENよりは幾分か優しいが)。

 さて、Nizi Projectと言えばキューブ(あれをキューブと呼んでいる参加者がどれほどいたかはさておき)という印象がある人も多いと思うが、あのキューブこそが、Nizi Projectで機能していた絶対的な基準ではないだろうか。キューブをもらえるかどうかは、順位で決まるわけではなく、ひとえにJ.Y. Parkのお眼鏡にかなうかどうかである。視聴者にはわからない、そして参加者も明確には理解していなかっただろう、はたから見ればふんわりとしている彼の確固たるボーダーライン。それは権力という意味でも、彼の心中としてもおそらく絶対的なものであり、全員が本当に素晴らしいパフォーマンスをしたならば、彼はきっと全員にキューブを与えたのではないだろうか。少なくとも僕はそう信じている。というか信じたい。そういう意味で、あのキューブはデビューの可能性を表す、絶対的な基準であったはずである。

 はじめに言った通り、最終的なデビュー人数を決めなかったというのも、この絶対性が尊重されたルールであり、この自由さは、参加者どうし、お互いに競い合うことではなく、お互いを高め合うことを志向させた、素晴らしい機能を持っていたように感じる。そして、デビュー人数を決めないだけで、我々視聴者にとっても、誰か一人のデビューを願うことが、ほかの誰かの脱落を願うことを意味しなくなるのだ。

 

 Part1の東京合宿時点から考えれば、韓国合宿参加者が発表された時点で、全員のデビューは達成されておらず、Part2だけで考えても、最終的には脱落者が出てしまったわけだが、僕にとって、Nizi Projectは幾分か見やすいオーディション番組であるように感じられた。それは、上に述べたようなシステムの恩恵でもあり、僕の中でのデフォルトであったSIXTEENと比較しながら見ていたからでもあるだろう。JYPに慣れ親しんだこともあってか、Nizi Projectに流れている空気そのものが、自分の肌に合っている。そんな気がした。

 ただ、現状抱えている問題として、Nizi ProjectおよびNiziUに少々ハマりすぎてしまっているということが挙げられる。もはや思い入れどころの騒ぎではなくなっていて、もう抜け出せないところまで来ているような気がする。デビューするそのときが、本当に楽しみで仕方ないのだ。3年ほど推し続けているTWICEに対する愛には及ばないにせよ、オーディションの最初からデビューまでをリアルタイムで追うことは、ゼロの状態からこんなにも激烈な感情を生んでしまうのかと、恐ろしさすら感じている。

 

 ......やっぱり、オーディション番組を見ることは、なかなかにしんどい。