『推したちとどう生きるか』を読んで

Ⅰ:「推し活」という言葉

 どうにも「推し活」という言葉が好きになれない。

 語末の「活」に、余計な主体性を感じるからである。

 誰かのファンであることは、その対象が世界の中心として語られるべき、あくまで受動的な営みだと思っているからである。何かのオタクであることは、その感情や状態を軸に活動が付随しているのであって、自分を主語にした行動でもって語ろうとすることに、違和感があるからである。

 これらは自らのオタク的立場の表明に過ぎず、別に言葉狩りをしたいわけではない。自分からこの言葉を選択することはしないものの、自分の行動の一部が「推し活」に分類され、そう呼称されるような場面では、ひとまず受け入れることもある。

 ただ、この「受動的なのに主体的ぶる」「主体性を押し出す」ようなニュアンスが、「推し活」に含まれるさまざまな言動に偏ったステレオタイプを生み出し、結果的にそのような言動全体を毀損させたり、誤解させたりしてしまう瞬間を作りうるのでは、とは思う。

 過激な熱狂や課金という「活動」のイメージが、わかりやすい批判の的の役割を果たす。「推し活」をしている側の人間が、何かが正当化されたかのごとく嬉々として「活動」に胸を張ることで、逆にその「活動」というベールを剥ぎとろうとする人間が現れる。そして、結局は他者依存的であるという性質を発掘した彼らが、自分のためにならないという論点を振りかざして攻撃を開始する。良かれと思っての中途半端なパッケージが、言葉を実態から離れさせ、叩かれる隙を与えている感じがする。

 

 この言葉が纏ってしまったそういう匂いに対して、『推したちとどう生きるか』は、実際の「推し活」がより幅広く豊かに広がっているのだという現実を、まえがきで最初に示してくれている。渦中に立つ人間の声が聞こえてきて、推しに関する議論で久しぶりに共感できるという事実が、まずは嬉しい。

 ともに語られる、推しの存在がハレとケにおける「ケの日常」にも浸透している、という内容は、同じ言葉遣いでコロナ禍の頃の記事(『BETTER』)に自分も書いていて、心から頷けた。下記は該当記事からの引用だが、我ながら良いことを言っている。これはいわば「推し活」において活動や行動を伴う必要性はなく、感情や状態こそがその本質であるという主張であって、この思想は6年経った現在でも全く変わらない。

もっと言えば、何か具体的なモノを観たり聴いたりしなくとも、TWICEのことを考えている時間は僕にとって幸せな時間であり、それはただTWICEを好きであるという事実のみによってもたらされる幸せだ。

 思うに、「推し活」という言葉によって、推しとともにあるさまざまな文脈が、わかりやすい行動にばかりフォーカスされやすくなっていることで、その裏にある感情という本質を見失わせているのではないだろうか。そしてこれは、成長や貢献といった「主体的な行動」を正しい・良いものとする世間的な価値基準の土俵に、推しにまつわる営みを乗せようとしたエラーに起因している気がする。

 

Ⅱ:「好き」という感情

 自分を含め、本書を読んだ多くの人にとって、きっと印象に残るのは、あとがきに書かれた甲子園での「全員が敵に見えた」エピソードだろう。大差のリードからの逆転劇が始まったとき、観客全体が負けているチームを応援するべく、ぐるぐるとタオルを回し始めたという。投手からしてみれば、確かに間違いなく全員が敵である。集団が、集団であるがゆえに、無意識の悪意や残酷さを持ちうるという話である。

 昔、ポケモン剣盾にまつわる話を書いた際に、ゲーム内のチャンピオン・ダンデのこんな言葉を引用したことがあり、これを書いたときの感情を思い出した。

『いいかい?彼ら 観客は どちらかが 負けることを 願う 残酷な 人々でも ある!』

 音楽番組のランキング、ストリーミングの回数など、誰かを応援することは、ときに集団どうしの「比較」や「競争」に巻き込まれる仕組みになっている。ただ一人で好きなだけで、緊張感のある「団体戦」をしたいわけでは無いのにと思い、それゆえ、そこに加担することをどこか不本意だと感じていた(し、今もそう思っているので積極的には参加しづらい)。

 

 念のため言っておくと、ファンダムの活動を否定したい気持ちは一切ない。そこにこそ、推すことのやりがいや楽しさを感じている人も多いだろうし、もう少しライトな部分の話で言えば、自分もタイムラインでオタク同士の交流を楽しんでいる。ただ、何か特定の行動が「推しのため」といった名目で絶対的な正しさとして機能してしまうこと、そのルールから外れた人を悪のようにみなすこと、あるいは「〇〇しなければならない」という義務が個人の中に発生することは、幸せから遠ざかっている感覚がある。

 結局はこれも、自分の中にある個人的な感情こそが本質、という主張から繋がっていて、自分自身の「好き」から始まった物語なのだから、自分が何を感じるか、自分が何をしたいのか、が最も大切なはずだ。だから、集団としての「正しさ」を気にしたり、周りの目を意識しすぎたりすることで、個人的な感情を蔑ろにして削ぎ落としてしまうのは、最初に感じた「好き」を歪めているようでもったいない、と思う。

 

 円盤を買わなくても、公演に参戦できなくても、全ての動画をすぐさま見なくても、いいねがもらえないようなツイートをしても、別にあなたの「好き」は損なわれない。好きかどうかは、他の誰かではなく、自分の感情が唯一の答えなので。

 

Ⅲ:「意味」という束縛

 ところで、ここまでで考えた「ファン集団 vs その中の個人」という対比は、「世間という集団 vs 推しを持つ個人」という対比にも拡張することができると思っている。

 世間から「推し活」が批判されがちである理由の一つとして、その言葉が「活動」のイメージや余計な主体性を帯びていることを挙げたが、そもそも、活動だから認められるべきだとか、主体性に欠けているから無意味だとか、そういった議論をしている時点で、世間における「正しさ」という、非常に大きな集団のルールに乗っかってしまっている。

 

 自分を顧みず、他者に依存する推し活には意味がない、という主張がある。

 コミュニティの拡張や自分磨きにも繋がるのだから価値がある、という反論がある。

 目の前の人間関係や現実からの逃避であり、何の役にも立たない、という批判がある。

 経済への貢献をしているのだから、社会にもメリットを生む、という意見がある。

 この全部が、的外れに思えてしまう。意味や目的に囚われている段階で、社会や誰かの作った価値基準をもとに「正しさ」を見出そうとしてしまっている。「好き」や「推す」を始めるきっかけだったはずの個人の感情は、無意識の中でもうどこかに棄てられている。

 

 この現代社会で暮らしていると、全てのことに意味や目的を求める癖がつきやすいのだと思う。自分を成長させなければならない。役に立つ価値を創り出すべきだ。そういう、言ってしまえば資本主義的な「正しさ」をそれぞれが内面化してしまい、無意識にその基準とルールでもって、あらゆることを判断しようとしている気がする。「意味がある」ということばかりに安心して、知らぬうちに意味だけを喰らうようにして生きてしまう。

 でも、何かを好きであるという感情や、その感情から純粋に湧き立った行動は、意味や目的を持たない。なぜなら、好きであることそれ自体がゴールだからである。好きだと感じた段階で、意味なんて満たし切っているのだ。社会や誰かの価値基準は一切関係なく、そうあることが、それだけで幸せなのである。

 裏を返せば、どんなものにも意味を求めてしまうのは、何が幸せなのかというゴールを忘れている状態なのかもしれない。生きていくためには、もちろん自分の成長や価値も重要だ。では、成長した先で、自分が本当にやりたいことは何なのか。そのゴールが分からぬままに、意味だけを追い求めているのだとしたらそれは、身を滅ぼすほど推し活に呑まれてしまう人と同じくらい、盲目的なのでは無いだろうか。

 

 ちなみに、対「推し活」の意見としては、きっと過度な浪費や依存の問題が思い浮かぶだろうが、まず前半に述べたようにそれだけが「推し活」ではない。また、それは「推し活」だけの問題ではない。他の趣味、あるいは趣味の外側ですらその可能性は発生し得る。そもそも、どんなことでも全振りにリスクがあることは当たり前の話で、それは自己投資や仕事など、「正しい」とされているものが対象だとしても、同じことが言えると思う。自戒も込めての結論にはなるが、大事なのはそのバランスを欠かないことなのだろう。

 そして付け加えると、ファンダムの活動を否定しないのと同じように、この論において、決して「成長」それ自体を揶揄したり、否定したりするつもりは毛頭ない。勉強・筋トレ・美容・資格、そういった自己成長に関わる行為それ自体に「好き」や「幸せ」を見出す人もいるだろうし、対象は違えど、好きなものへの熱中という文脈は同一だからである。

 集団の価値観と個人の趣味嗜好の方向性が合うかどうかは、もはや偶然や運のようなものだと思う。ただ、その一致不一致はさておき、誰しもが意味に踊らされることなく、個人の本心から好きなものを好きでいてほしい。そう思っている。

 

おわりに

 何かを好きな感情、そして何を好きだと思うのかという価値観は、真に個人のものであると言いたい。だから自分自身で守らなければいけないし、同時に、だから他人を攻撃する武器にはなり得ないのである。

 自分の感情を大切にすること。

 自分の物差しを「正しさ」として他人に振りかざさないこと。

 本を読みながら、そんな穏やかな距離感が守られる世界であってくれたらと考えて、この文章を書くことにした。

 

 アイドルでも、小説でも、ゲームでも、好きなものに出会えた瞬間というのは、本当に嬉しい。自分にとっての幸せが増え、まさに人生が豊かになる瞬間だからである。何かを愛して、何かに夢中になった時間を、僕は大切に抱えながら生きていく。

 いずれその姿が、変わりゆくとしても。

 

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 

 ──あなたの好きなものは、なんですか?

ONE SPARK

 公演の時間は、僕という人間のかたちを浮き彫りにする。

 

 視界の小さなど真ん中で繰り広げられるステージは、僕が死ぬまでに見ることになる人間の動きの中でもきっと、最上級に美しくて、洗練されていて、完成されている。

 信じられないほど濃密なはずの一秒たちは、無情にも普段と同じ一秒の間に流れてしまい、上手に捕まえられない。絶品の料理の数々が、止まることのない回転寿司のレーンに乗っていて、食べきれないまま目の前を通り過ぎていく。この幸せなもどかしさを、贅沢と呼ぶのかもしれない。

 

 その至極のステージの向こう側に、僕は自らの人生を見つける。スタジアムに鳴り響いている音楽と歌声は、あらゆる季節に僕の耳元で流れていた音楽と歌声だ。それは、眠気が残る電車の中に、講義の間を潰すために歩く大学構内に、雨傘と革靴を濡らす帰り道に、少しだけ色をつけてくれた。音楽を聴くのも、動画を見るのも、ひとりでいることが前提で、こういう場面が浮かぶたびに、登場人物はいつも自分だけだなと思う。

 だから、公演を浴びると、自分がどうやって生きてきたのかを思い返すことになる。正確には、自分が目の前の素晴らしいパフォーマンスに夢中になっている間に、良い音楽を引き金にして、心が勝手に思い返している。そしてこの時間も、次の機会に思い返される過去として、どんどんと積み上げられてゆく。

 

 この瞬間に激しく動かされている感情と、その感情が今ここにあるために必要だった過去と、その両方の原因がTWICEにあるということに、頭と心がいっぱいになる。公演の喜びが、身体のあちこちから染み出してくる。

 僕は公演のたびにこの気持ちを味わえて、僕以外の人間は、これと全く同じ気持ちを味わうことは絶対にできない。ひとりひとり、過ごしてきた人生は違うから。そう考えると、ここで溢れてくる感情が、これまでの軌跡をなぞった僕のかたちなのだと思えてくる。

 

 自分自身で手一杯な僕は、国立競技場で8万人の中にいながら、そのうちの誰とも接続していない。歓声やその一体感を、車窓や石畳や水溜りと同じ、周りの景色や現象としてどこか捉えている。自室にこもってタイムラインを見ているときのほうが、よほど他の誰かと繋がって、反応を気にかけているかもしれない。

 TWICEの音楽を聴くとき、だから僕はやっぱりひとりきりで満たされていて、それを嬉しく思う。誰かと言動を比べたり、意味やメリットを求めたり、そういう社会の文脈から外れたところで、自分が勝手に何かを好きでいられることは幸せだ。自己満足は幸せだ。

 

 

This is the time of our lives / Carved into our minds / 저물지 않아, there ain't no sundown.

 

 また会える日を願って、僕は自分の人生を、TWICEとかたち作っていく。

 

ONE IN A MILL10N

 TWICEは凄すぎる。

 その軌跡はあまりにも「物語」で、彼女たちの10年間の出来事をただ時系列に辿っていくだけでも、きっと上質で感動的なドキュメンタリーに仕上げることができるはずだ。

 しかし、そんなありきたりに逃げることなく、TWICEの本質を捉えるためのドキュメンタリーを作るとしたら、どんな方法が考えられるだろうか?

 この問いに対して『ONE IN A MILL10N』という映画が出した、メンバーを一人ずつ純粋に掘り下げていくという回答は、TWICEだからこそ成り立つという意味でも、間違いなく正解のひとつだと思わされた。TWICEは人生。

  • Ⅰ:TWICEの人柄について

 劇中でジヒョは「TWICEには明確なコンセプトがない」と口にした。名前の由来である「いい音楽で一度、素晴らしいパフォーマンスで二度魅了させる」は、良いアーティストであること自体をコンセプトだと言っているようなものだ。今となってはそれを体現できてしまっているのがTWICEの凄さではあるのだが、確かによく考えてみると、とても抽象的な理想だけが掲げられているという感じがしないでもない。

 しかし同時に、J.Y.Parkは「TWICEのパフォーマンスにはメンバーの人柄が反映されている」と評しており、コンセプトとは違うのかもしれないが、僕もそれこそが根幹だと思う。

 言うなれば「TWICEのコンセプトはTWICE」ということだ。楽曲に決まった雰囲気や曲調があるわけでもなく、歌詞に一貫した方向性のメッセージを込めようとしているわけでもない。しかし、なぜだかTWICEの楽曲には、初めて聴いても「これはTWICE!」と感じさせる雰囲気に満ち溢れていて、このヌッキム(느낌)が9人の人柄や個性によって作り上げられてきた「TWICEらしさ」だという気がする。

 そして、彼女たちの人柄が作り上げているものは、パフォーマンスという「表舞台」だけではないという事実を、映画を通してもう一度念押しされたような感覚がした。ここでは「表舞台」に対して「舞台裏」と呼んでおくが、できる限り最高の作品や完璧なステージを生み出すために、あるいはその道中でぶつかる険しい壁を乗り越えるために、9人の人格と関係性を尽くして「舞台裏」を生きている。我々からは、ドキュメンタリーのような場を通してしか見えることのない時間にも、パフォーマンス以上に人柄が緻密に織り込まれているのだろう。

 まとめると、表舞台にも舞台裏にも人柄が色濃く反映されている、ということがTWICEの素晴らしさであり、言い換えれば、彼女たちの人柄ゆえに、10年間多くのファンに愛され、10年間存続してきてくれたと言うことができる。だから、彼女たち一人一人の内面に迫ることは「いかにして10周年を迎えられたのか」という軌跡について、これまで起きたさまざまな出来事の羅列以上に多くを語ることになりうるのだと思った。

  • Ⅱ:TWICEの才能について

 さて、ナヨンの『STUCK』の話をしてもいいですか?極めて勝手な推測で申し訳ないが、あれを我々に食らわせるタイミングについて、制作陣は頭を悩ませた時間があったのではないだろうか。TWICEを語るうえでナヨンの話を序盤にせずにはいられないし、ONCEへの想いをあれほどまで美しく歌声に乗せられてしまうと、適切な文脈なく無造作に挟み込むわけにはいかないのである。ドキュメンタリーを観に行くという心構えの死角から、恐ろしい威力で打ち込まれた弾丸のようで、映画館に座っていながらにして、その感動の種類は東京ドームで感じたそれにも近かった。

 あのメンバーを揃えながら、ナヨンにこそセンターが似合うのは、内面を「表舞台」に表現する能力がずば抜けていることがその理由だと思う。先述の「TWICEらしさ」の権化なのである。また、属性は違えど近い能力を持っているのがチェヨンなのかもしれない、と劇中のインタビューに感じた。チェヨンは、自らの個性を世界に対して表現することを強く望んでいて「今よりもアイドルを多様化したい」とすら語っていた。カッコ良すぎる。それに、きっと本当にそうなるだろう。いま思えば、この2人のSIXTEENの頃からの安定感は、表現者としての才能に起因しているんだろうなという気がした。

 また、劇中のパフォーマンスでも恐ろしい高みを目指そうとすることからもわかる通り、モモとジヒョは、その人格を想像以上に「舞台裏」で発揮しているのだと思い知った。

 ジョンヨンが冗談まじりに「ダンスがうまいから仕方ない」とTWICEのパフォーマンスにおけるモモの働きを表していたが、おそらくこれはガチな話で、彼女には生まれ持った才能の責任を負っているようなところがあるのだと思う。あの日名前を呼ばれたことも、歌の努力を欠かさないことも、圧倒的な能力の存在が根底となっていると思うと、自分の中でも何か見方が変わったような気持ちがした。名も知らぬONCEの言葉を借りれば、まさに「痺れる」人だ。

 そして「誰がリーダーでも良いリーダーになっていたはず」はハッとするほどTWICEのことを言い表した名言だが、それでも俺たち(?)のリーダーはジヒョだよな、と思う。過去の自らのステージに対しても、もっとできたと厳しい視線を向けがちな彼女が目指している完璧は、高得点というより「減点が無いこと」であるような気がする。マイナスをゼロに修正する、TWICEの品質管理責任者と言うイメージが浮かぶ。「減点が無いこと」イコール何も起きないということであり、それを我々が意識するのは難しいのだが、トラブルなくパフォーマンスを楽しめるのはジヒョのおかげなのだろうと、そのシゴデキぶりには今一度感謝を捧げざるを得ない。

  • Ⅲ:TWICEの人生について

 彼女たちの人柄がTWICEの本質であると考えたとき、つまりは「TWICEとは彼女たちの人生である」という事実にも正面から向き合う必要がある、と映画を通して思った。

 我々ONCEが感じているTWICEは、先ほどの表現で言えばそのほとんどが「表舞台」に過ぎない。もちろん、日々の原動力でもあり、通勤通学を共にする音楽でもあり、家に帰って一息ついた後のとっておきでもあり、TWICEが人生を支えてくれている大切な存在であることに疑う余地は一切ない。しかし、それは我々が生きざるを得ない「日常」の本筋とは異なる位置にあり、いわば特別な「非日常」としての側面が強い。「TWICEは人生」なのだが、同時にどこまで行っても「TWICEは人生ではない」のだとも気づく。

 一方で、メンバーが感じているTWICEは「舞台裏」がその多くを占める。メンバーにとってTWICEとして活動することは「日常」であり、その環境・過酷さ・常識はまるっきり違うものの、我々の「日常」とも共通するような、早起きに悩んで退勤に歓喜する、生活的な側面もそこにはある。その意味で、9人にとっては本当に「TWICEは人生」なのだ。

 すみません、複雑になってきたのでちょっと図解します!

 この立場や感覚の違いは、どうしてもお互いに共感することができない。たとえ部分的には重なっても、僕が「TWICEが名前の一部」だと思える日は永遠に来ない。そして個人的にはその事実が、映画館を出た後の傘を差しながらの帰り道にも、ずしんと心に残りつづけて消えない感覚がした。

 海外で巨大なステージに立つことに対して、「現実味が無い」「こうなれるとは思っていなかった」と彼女たちは口にしていたが、その実感の薄さの正体のひとつは、この立場の違いから、TWICEのパフォーマンスがどれだけ素晴らしいものなのかということを、本人たちが自覚しきれないからなのでは?と想像した。自らが作り上げたものに対して、純粋な受け手の目線を持つことは困難だと思う。「ONCEになれたら自分たちのステージを見てみたい」というのは、そういう意味を含んでいるのではないだろうか。これも当然「想像」にとどまるしかないのだけれど。

 彼女たちからすると、「日常」の中で「舞台裏」での努力を必死に積み重ねていたら、幸運なことになぜか多くのONCEが愛してくれて、大きな舞台に立てる日が訪れていた、という世界観なのかもしれない。あんなにとんでもないのに。

 

 そして重要なのは、逆に我々は、TWICEの人生に対して無自覚にならざるを得ない部分があるということだ。同じく巨大なステージに立つ例で考えてみると、そのニュースが飛び込んできたとき、TWICEに対する誇らしさや畏敬の念は改めて抱くものの、反面「TWICEならあり得るか」とどこか納得してしまうような心持ちになる。

 海外の音楽関係者は、埋めたドームの席数やランキングの順位など、数字としての功績・成果でTWICEを評価していた。身勝手な主観で言えば、僕はそういった数字にほとんど興味がない。評価者ではなくファンなので。自分はTWICEの魅力を十分に感じており、それ自体が幸せにつながっているわけだから、数字で好きな気持ちが変わることはないな、とも思う。しかし「舞台裏」を生きるTWICEにしてみれば、その功績はまさに人生における「努力の結実」であり「夢の実現」という極めて重要なゴールのひとつなのだろう、と想像される。

 我々は、TWICEの「舞台裏」を限られた情報から想像することしかできない。いや、その想像さえ信用できるものではなく、TWICEの活動の下で常に横たわっている9人の人生について考えることの難しさを、心に留めなければいけない気がしている。当然、ドキュメンタリーでも不十分だ。あの『CACTUS』は間違っても「泣けるコンテンツ」などという表現で消費していいものではないはずなのだけれど、でも僕はとにかく受け取る以外の、それ以上の寄り添う方法を何ひとつ持たないのだ。

 改めて、TWICEとは彼女たち9人の人生そのものでもある。だから、我々がTWICEに願う未来や、これまで願ってきた過去は、本来彼女たち自身にしか決められない人生の選択である。願うべきではないということではなく、文字通り「願うことしかできない」と知りながら願うべきなのだ、と思った。

  • Ⅳ:TWICEの未来について

 では、TWICEとONCEはそれぞれ独立した存在なのかというと、これもまたそんな単純な話ではないとも感じている。お互いの立場や感覚には分かりようのない部分もあるということは認めるべきだが、また一方で、その違いを大切に思い、人生に間違いなく影響を及ぼしてあってはいるのである。

 我々は日常的に、TWICEのために貯金をしたり、TWICEのために時間を作ったり、TWICEのために生活を頑張ったりしている。ここで言う「TWICEのため」とは言葉のあやのようなもので、結局のところ「自分のため」とするほうが適切に思える。自分が会いたい・見たいから、勝手にその行動を選択しているわけだ。しかしもう少し俯瞰して捉えてみると、これらの行動は自分一人では極めて微力ながら、売上などの形で実際に「TWICEのため」になっていたりもする行動である。

 上記の例と規模が違いすぎるということは前提としつつ、TWICEの皆さんの行動選択においても、「ONCEのため」が「彼女たち自身のため」と少しばかりは重なってくれているのではないかと、再契約について語るシーンを観ながら信じたくなった。カムバなどの際にも「ONCEのために準備した」といった言葉をよく口にしており、それはまず本当に感謝してもしきれない今日この頃なのだが、何かを選択するという場面において、ONCEの存在が単なるプレッシャーや負荷ではなく、彼女たちの中に内面化されてポジティブな後押しにも繋がっていたら嬉しいなと思う。大変恐縮ですが。

 その意味で、TWICEというグループのこれからは、再契約のときと同じく、ONCEの願いも踏まえたうえでの、TWICEの選択によって決断されるのだろう。とは言え、T型だろうとF型だろうと、人間にネバーランド的な真の永遠は訪れず、残念ながら「変わらない」という選択肢は存在しない。同じ姿・同じ内容の公演を何十年も続けていくこと、10年前のような献身の仕方でもって「TWICE = 人生」を継続していくことは、どうしても現実的にあり得ず、何らかの変化を含んだ人生の選択が行われていくはずである。

 そういう視点を持って劇中で扱われた出来事を振り返ってみたときに、近年のメンバーそれぞれの新しい「挑戦」は、彼女たちにとってのTWICEというグループの位置付けを「人生の全て」から「人生の一部」に変容させていく過程であるようにも映った。どんな未来になろうとも、9人がTWICEを背負って生きていくことに変わりはない。ただ、ソロやユニット、MCに俳優にモデルなど、その形を多様化させ、グループ活動とは別の「日常」も作り出すことが、もはやグループという枠組みを超えて、概念としての「TWICE」が活動を続けていくための選択になりうるのかもしれないと、未来を想像させられた。

 「ミナの人生に楽しみが増えるように」というリーダーの苦心と心遣いが目指していたのは、いわば「TWICE = 人生」という構図からの逸脱であるようにも思う。「非日常」とまでは行かないだろうが、TWICEにとっても、これからのTWICEとしての時間になるべく多くの幸せが詰まっていてほしい。「推しに幸せでいてほしい」ので。

  • Ⅴ:TWICEについて

 思うに、ONCEによるTWICEへの愛と、TWICEによるTWICEへの愛とが並び立ち、揃い合わさることで成し遂げられたのが、この10周年なのだろう。その愛の背景には、彼女たちの人柄から生み出される、「TWICEらしさ」満載のパフォーマンスと、お互いを支え合いながらの圧倒的な努力が存在し、そうやって「人生」が尽くされてきたのだと思った。

 この壮大な愛が、この先どのような形を取っていくのかについて、僕にはただ願うことしかできない。しかし、今まずここに10周年という形で積み上げられているというその事実が、こんなにも長々と言葉を尽くしたくなるほど大切で、言葉では言い表せないほど尊いものなのだと、『ONE IN A MILL10N』を通して強く感じさせられている。

 こんなにも愛に溢れたグループが生まれることってあり得るのだろうか。100万分の1ではきかない奇跡だと、僕は思う。

Wonderful Day

 —— 星のよう舞い散る 雪に願いを

 雪の降る帰り道、またいつかこんな日が訪れてほしいと願った12/17を、手のひらで消え去る前に書き残そうと思う。

 副題は、アリーナの最前ブロックから仰ぐTWICEについて。

 

 

 誤魔化せないほどの動悸や眩暈を抱えながら迎えた『SET ME FREE』でまずいちばんに感じたのは、いわゆる「解像度の高さ」である。使い古された表現なのでもう少し自分なりの言葉で言い換えると、なんというか「TWICEの筆致」が見えたような感覚?だった。

 例えば、美術館でグッと顔を近づけて絵画を見てみると、それが写真などで見たことがある作品だったとしても、実際の色味や筆の通った跡、複雑な色の重なり具合など、事細かな「筆致」に改めて気づくことができる。それと同じで、本当に自分の目の前で歌って踊るTWICEは「TWICEが踊っている」という認識ではとどまらず、「ジヒョの腕が振り回されている」とか「サナの髪が弧を描いている」とか「ジョンヨンの衣装のリボンが揺れている」とか、TWICEのパフォーマンスを構成する大量の「筆致」の塊として流れ込んでくるようだった。

 かと言ってほんの一部だけをフォーカスして見ているというわけではなく、いつも通り全体を見ていたとしても、そういう細部の情報まで同時に摂取できるという、自分でも理解し難い状態だった。一秒あたりの刺激が多すぎて、本当にパニックになる。どこの病院でも観測されたことがない脳波とか全然出てると思う。全員。

 あとは、絶対音感の人が聞く音楽に近いのかもしれない。それぞれの音に音階がつくみたいに、パフォーマンスの各部分に追加の情報が送られてくるイメージ。とにかく、TWICEの全てが膨れ上がっていて、今ここに存在するんだ!というとんでもない実在感がそこにはあった。

 

 時が経つにつれて、公演全体の「立体感」が強まっていることにも気がついた。サブステージでのTWICEを後ろから見る形になるので、YouTubeに上がるような各種パフォーマンス映像ではよほど意識しなければ見えない部分が目の前で展開される。当然のことながら、パフォーマンスは中央前から見たときの最適解を目指して組まれていると思うのだけれど、その綺麗さを成り立たせるための後方、めちゃくちゃ良い。文字通りのビハインド、ステージの裏側。料理のレシピを知ったうえで食べると隠し味の良さを深く感じられるあの体験が、アイドルのステージにもあります。

 というか、公演に参加しさえすればほとんどの席で普段の映像とは違う角度からTWICEを見ることになるので、それぞれの場所で違う気づきがあるんだろうな。一応自分の座席からの気づきを言っておきたいんですが、"MOONLIGHT SUNRISE"で向かい合ったサモが笑顔になるやつ、これまで意識できていなかったのでこっそりやらないで!(この動画の1:48です)

 加えて、公演が形作られている現場に近いことも立体感に寄与していたように思う。公演終わりにもツイートしたけれど、一瞬の隙を見てイヤモニの調子をスタッフにジェスチャーで伝えるTWICEをはじめ、目の前の通路を縦横無尽に動くモニター用のカメラとか、立ち位置を間違えたサナにこっちだよって指で教えるジヒョとか、決して歌って踊るだけで完結しているわけではないのだということを強くわからされた。そんな風にいつもより多くのパーツに目を通すと、どれだけ経験を積んで、どれだけ準備をしたら、我々の視界に映るあれが出来上がるんだろうかと気が遠くなるのを感じた。巨大な精密機械みたいだと思った。

 

 

 共感されないかもしれないが、公演中、どこか地に足がつかなくなって、ワンスの掛け声やステージの音量から自分の意識だけがふわりと切り離されるような、良くも悪くも夢の中にいるみたいな瞬間がやってくることがある。同じ空間で起こっている出来事が現実味を失い、いつも通り画面の向こう側を覗いているかのように感じさせられる瞬間だ。

 ただ、この名古屋公演にそんな時間はなくて、TWICEのあまりの存在感と重量感で、何かを考えられる隙間がないくらい、心がずっとステージに繋ぎ止められていた。夢のような時間でありながら、これが現実でなければ何を信じられるのかという距離で全ての出来事が始まり、続き、そして終わっていった。

 それほどまでの現実感を伴いながら、サブステージに立つ9人を照らすスポットライトは、まるで神聖な後光のように見えた。強烈な解像度と立体感が「『現実的にはあり得ないようなレベルに達しているTWICE』という現実」を突きつけてきたのだ。(この文章伝わる?)

 大盤振る舞いのファンサも、アンコールステージのわちゃわちゃ感も、イムナヨンさんの最後のMCも、これでもかというほど彼女たちの人間味と思いやりを受け取らせてくれるし、そうやっていつも近くにいてくれるTWICEのことが好きだ。ただその一方で、ビジュアルもパフォーマンスもどう考えたって人間離れしていて、目の前で躍動する一挙手一投足に感動を覚えるたびに、彼女たちは別次元の存在だということを強く認識させられた。

 物理的には手が届くのではないかというほどの距離で、絶対に手が届かない場所にTWICEは立っているのだと知った。TWICEは本当にすごい。これだけ分かってもらえれば良いです。

 

 

 結局、書き上がるまでに一週間が経ってしまった。名古屋から帰ってきた当日夜の段階で内容はまとまっていたし、なんなら半分以上は完成していたものの、時間と心の余裕が足りない平日に押し流されていた。まあその忙しさもTWICEの皆さんほどではないけれど。

 そんな日常も、0時に飛び込むかもしれない新着情報のおかげで明日に期待が持てるし、最高品質のTTTとVLOGのために来週を待ち望めるし、カムバや公演が決まれば来年だろうと生きることに希望を感じられるというものである。すぐそこにTWICEの愛と音楽がある世界を、これからも暮らしていきたいと思う。

 

 きっと僕が願いを託すべきは、雪ではなくてTWICEなのだろう。また会わせてください!

 

 —— 世界に優しさと 涙癒すメロディを

 

色づく空模様 Tropical yeah

 先週末の空について書こうと思う。

 

 東京公演2日目は、緩めの半袖がちょうどよく、それでいて飛田給駅からの道のりを歩いたくらいなら汗ばむまではいかないような、風の心地よい外気だった。開演直前の興奮と慌ただしさを抱えながらごった返す、これまで以上に大量のワンスたちの間をすり抜けながら、アリーナ専用の入場ゲートを目指す。アップグレードなるシステムに感謝。

 5年という時間をかけてようやく辿り着いたと言いたいそのアリーナ席は、空の下だった。屋外から屋外への移動を「入場」と呼ぶのはどこか不思議な気持ちになる。肌に触れている空気をそのままにステージの近くまで歩いて行けることはとても新鮮で、この感覚こそがここに書き残そうとしている想いの全てと言ってもいい。

 

 そう、スタジアム公演の魅力は、なんというかこの切れ目の曖昧さにあると思う。

 例えば、東京ドーム公演が開演する瞬間には必ず照明が落とされる。同時に客席から歓声が上がることからも分かる通り、会場全体が暗くなることこそが言わば始まりの合図であり、そのタイミングで我々は明らかに日常から切り離される。ごく普通の日常生活においては、突然闇と歓声に包まれることはそうそう起きない出来事であり、この一瞬で特別な異空間に飛ばされていると言ってもいい。

 逆に、公演が終了して再び会場が明るくなったときの、全身の筋肉がフッと緩むような感覚、あるいは気圧差によって会場から押し出されたときの、明るかったはずの空が知らぬ間に夜を迎えているという事実。そういった現実世界へと「帰る」ことを感じさせるひとつひとつも、公演中は自分自身が普段の日常から隔離されていたことを示しているように思う。

 しかし、スタジアム公演はドーム公演とは違っていて、自分の日常や人生を完全には切り離さないままに存在する空間のように感じられた。TWICEがすぐそこに存在しているのに、常日頃から小さな画面で見ているパフォーマンスが目の前で披露されているのに、そうなのである。そして、自分がそう感じられるのは、きっと空のおかげだと思った。

 

 わかりやすく対比的に語るのであれば、まず大空の下では開演の瞬間に会場を闇に包むことはできない。照明の力で強制的に異空間に飛ばされるのも、情緒が壊れてしまいそうな衝撃を伴うのでそれはそれで最高なのだが、スタジアム公演では、普段自分の周りに流れている時間の延長線上で、じわじわと特別な時間に流れ込んでいくような気持ちがした。システムの力ではなく、TWICEのパフォーマンスに魅了されることによって『READY TO BE』の世界に引き摺り込まれていくのが本当に心地よい。

 パフォーマンスの質感についても、違いがあるような気がする。今回の公演では、バンドの演奏にいたく心を揺り動かされたのだが、きっとこれもスタジアムだからこそ味わえる部分があった。音が会場に鳴り響くというよりも、一度自分の体内を通った後は空へと吸われて消えていくような、そういう爽やかさによる良さだった。その音色はもはや「音漏れ」ではなく当たり前に会場の周りには届いているはずだし、派手に打ち上げられる花火も会場外の世界からだって目にすることができる。そうやって内と外が空間をともにしていることで、もはやこの公演はそこにいるワンスだけが知っている世界ではなくなり、いまここでTWICEとの特別な時間が流れているんだぞ!と、誰かに大声で自慢しているみたいな清々しさを覚えるのだ。

 そして何より、会場の明るさが空によって決められるということが、キャンディーボンの役割と意味合いをも変えているようだった。これは帰り道にツイートもしたのだけれど、キャンディーボンが自然とTWICEを照らす光になっていく情景は心の底から美しかった。光を目立たせるために会場を暗くするのではなく、会場が暗くなるから光が目立つという、いつもとは反対のこの因果関係が楽しい。開演から時間が経ち、手元の光が強まっていることにふと気づいたとき、誰かの意思や人為性は伴わず、自然現象にただ身を任せることで、TWICEのいる特別な空間の一員になれることの素晴らしさを強く感じた。

 

 こうして考えていると、空の色がシークバーみたいに思えてくる。

 何かの拍子に空を見ると、確かにいつも通りに時間が経過していることを実感できるし、あとどのくらいでこの幸せな時間が終わってしまうのかをなんとなく悟ってしまう。時間を可視化するその有り難さと無情さが、シークバーと同じように思えたのだ。そういう形で時間が目に見えるからこそ、普段と同じ現実味のある時間が流れているのだと知れるし、逆にその時間が普段の何倍もずっしりと凝縮された重みを持っていることも感じられたのではないだろうか。

 だからこの公演について、時間を忘れてしまうようだとか、夢のような時間だとか、そう表現しても間違いではないのだけれど、公演を終えて抱いた感覚はそれとは少し違っていた。なにせ、変わっていく空の色が、常に時間が流れているということを思い出させてくれるから。そして、会場に入る前の自分に流れている時間や空間と、この公演が地続きであることを感じさせてくれるからである。地続きであるという感覚は、目の前で展開されている素晴らしい音楽とパフォーマンスが、そこにしかない特別なものという見方だけではなく、いつも見慣れた景色の中でイヤホンから流している音楽の「本物」なのだ、という捉え方を与えてくれて、ようやく出会えたという喜びを増してくれる気がする。

 

 ここに書いたことはシンプルにスタジアム公演の良さであって、もはやTWICEに限ったことではないだろうし、多くの人が多くの場所でそれぞれ感じていることなのだと思う。ただ重要なのは、空の下でいつも聴いている曲を浴びられるということで、それは僕にとってTWICEでしかあり得ないことである。TWICEのスタジアム公演だからこそ、ここまで書き連ねたことに気づかされ、TWICEの楽曲とパフォーマンスだからこそ、自分自身の6年近くの日常を感じさせられたことだけは間違いない。

 さらに遡って一週間前の、雨空のステージを経験した人たちはきっと、僕には感じ取りようもない何かを味わったはずで、それゆえに晴れて良かったと100%の単純化ができるわけでもない気すらしている。とはいえ、種類は違いながらも、それもまたスタジアム公演であることが生み出した感情として、何かしらの共通部分を持っているように思うし、その人たちが少しでもこの僕の想いのどこかに共感してくれていたとしたら、こんなに嬉しいことはない。

 それから、今までは僕にとって「TWICEの公演」とイコールであったドーム公演も、今回この空について知ったことで、その違いから新たな良さの発見が生まれるような気がしてワクワクする。追加公演に参戦できるかはわからないけれど、次に僕とTWICEとワンスとが一堂に会する場所がどこであれ、さらにもう一段階楽しめそうだと思えた。

 

 アリーナの空気を身体の周りに引き連れたまま、会場の外に出る。興奮と寂しさを抱えながら歩く夜空は分かりきった紺色をしていて、今度は非日常から日常へと自分が溶け出していくようだった。この気持ち So Lovely!

会えない時を超えて

 2020年1月31日。

 思えばこの日が、僕にとっては終わりの始まりであったと同時に、2年後の夏に訪れる幸せな時間を決定づける始まりでもあったのだろう。まだ聞き慣れなかった「感染拡大防止」を理由に、翌日予定されていた『&TWICE』お渡し会中止のお知らせが届き、TLに流れてきたTwitterのライブ放送でニナの『Brand New Day』を初めて聴いたあの日。そうやって、いろいろな意味で風の匂いが変わったのが約2年半前のこの日だった。

 

 2022年9月4日。

 この記念すべき日について、いまこれを書きながら情景が浮かんだ思い出をいくつか書いてみようと思う。あらかじめ断っておくと、これはただの感想文だから、この日の出来事を残すための客観的な記録にはならないし、いわゆるレポートと呼べるほど大層な役目は果たさないことを許してほしい。

 

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 アリーナ前方でありながら会場のいちばん端という今回の座席は、オフラインでの公演が無くなる前、最後に参戦したTWICELIGHTS幕張公演とほとんど同じで、3年という時間をタイムスリップしたような心地にさせられた。"Light"を浴びに来ているところまで同じなのだから、偶然だと思うことのほうが勿体無いような気がして、脳裏であの日の光を思い浮かべながら開演を待った。開演前に流れるJYPアーティストが順番に紹介されるあの映像、めちゃくちゃ良い。メインの活動領域の違いからその感覚が薄れてしまうときがあるのだけれど、やはりNiziUはあの偉大なる先輩グループたちと名を連ねるJYPの一員なのだと、改めて認識として刻み込まれるし、今からその彼女たちを見られるのだという期待感も高まるというものである。すでに響き渡っているクラッパーの音を聞きながら、本当にJYPからデビューしてくれてよかった......と、何も始まってすらいない段階で泣きそうになってしまった。

 

 僕は公演のたびにいつも思うのだが、開演から終演までの中で最も心拍数が上がるタイミング、身体に変調をきたすほどの鼓動が体内から感じられる瞬間は、アーティストが目の前に現れる開演直後である。画面越しのずっと遠くにいるはずの存在が、自分と同じ空間に現れてしまうというのは、何度経験しても非現実的に思える。ついさっきまでは現実世界と地続きだったはずの会場が、彼女たちが現れたことを皮切りに丸ごと異世界へと飛ばされてしまったかのような、そういう急激な空間の切り替わりがたまらなかった。WithUと対面した瞬間のスイッチが入る感覚が好きだとマコも言っていたけれど、あれはファンである自分の側からしても同じであり、昔からずっと思ってきたことだったので嬉しかった。

 

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 さて、ここからは印象的なパフォーマンスについて書き残したい。

 まず、『CLAP CLAP』は最高に楽しかった楽曲のひとつだ。なんというか、本当に今日この日のために作られた楽曲なのだと気づかされて、マスクの下で笑顔になってしまった。この楽曲およびシングルのタイトルとツアー名『Light it Up』のフォントが同じなのは、もちろんこのシングルを引っ提げてのツアーであるということを意味しているのだろうが、むしろ楽曲の側がツアーに合わせて存在しているような気もする。声を出してはいけないという縛りが課せられた中で、この『CLAP CLAP』だけは「声を出せない代わりに拍手で盛り上げる」のではなく「拍手でこそ盛り上がる」ようになっていた。これってつまり、声出し禁止の公演で披露することが元から織り込まれているってこと?と一発目の"clap clap"で思い、心の中でも大拍手をかました。

 拍手なら本当に遠慮なんていらなくて、その歌詞を聴きながら「そういうことか〜〜〜」とクラッパーで膝を強打しつつ、全力で楽しませてくれることへの感謝を捧げた。声出し禁止という我々に課された枷をすっかり忘れさせてくれる、とにかく楽しくて素晴らしいパフォーマンスだった。

 

 公演全体を振り返って、いちばん自分が心を動かされたのは、ユニットでのパフォーマンスだったように思う。それは今まで見たことがない最も新しいNiziUの姿でありながら、いざ目の当たりにしたとき、逆にいちばん最初に彼女たちを見たNizi Projectを強く思い出した。

 当たり前のことだが、NiziUは9人でひとつのグループであり、普段は9人で役割分担をし、9人の魅力が溶け合うことでひとつのパフォーマンスを完成させている。もちろんその中でも各シーンで個人の能力は感じられるのだが、ああいう風に一側面ずつバシッと切り取って「ここに注目してね!」と得意分野に全振りされると、かつてそれを見せつけられた『I'll be back』や『Nobody』を思い浮かべずにはいられなかった。出会ってから時間が経った結果、多くの魅力を知ったがゆえにディティールを処理しきれず、「かわいくて歌もダンスも上手な女の子たち」というような、最高だけれど曖昧な概念としてNiziUを認識してしまっていた気がする。しかしながら、ユニットという形で彼女たちの魅力が因数分解されると、それぞれの色がいつもより鮮明に目に映って、9人をグループとしてではなく、それぞれ個人として認識していた頃、つまりはNizi Projectを見ていた頃の懐かしい感性が再度戻ってきたようだった。

 NiziUというグループを好きになるその前に感じた、「こんなにも強烈な能力と魅力を兼ね備えた9人が集まって、ひとつのグループとして存在しているのがNiziUなんだ......」という奇跡みたいな前提を改めて突きつけられる、特別な時間になった。ちなみに、個人的にはリクミイヒニナのステージが自分の聴覚にとってあまりに衝撃的で、そういえば全てはここから始まったんだった、と特に懐かしくて新しい感情を抱かされたパフォーマンスだった。あと、完全に勢いに乗ったニナは誰にも止められない。本当に最高。

 

 最後に、外せないのはやっぱり『Need U』になるだろうか。とにかく最短距離で歌詞が心まで届いてきて、感動するパフォーマンスだったというよりも、もはや話しかけられているような感覚に近かった気がする。実質ミーグリ。ここ数年、僕は韓国語の曲を聴くことが多く、特に好きな曲に関しては歌詞の意味まで分かって聴いているものもあるけれど、それでも細かなニュアンスだったり、直感的な理解だったり、取りこぼしを避けられないとは感じている。そういう意味では、NiziUの楽曲は自分に対してよりしっかりと響いている部分があるのかもしれないとは思っていて、それが形となり強く実感されたのがこの曲だった。

 リマのMCは、自分たちの楽曲でメッセージを届けたいという思いについての話だった。彼女たちの言葉に応えて、こちらも誠実に語るとするならば、僕はそんなに真っ直ぐな人間でもポジティブな人間でもない。だから、NiziUの楽曲を聴いて「自分も頑張ろう!」と素直に思えて日常を頑張れているかと問われると、その自信はないというのが正直なところだ。でも、少なくともあの瞬間、自分は『Need U』のメッセージを受け取ったと思えたし、そうやってNiziUとともにいられた時間と空間によって、もっと彼女たちのことを好きになることができ、その好きだという気持ちこそが、日常を歩む足取りを軽くしてくれるのだろうと思った。加えてこれだけは言っておかなければいけないのだけれど、アヤカの「この気持ち届いてるの?」がかわいすぎて胸が苦しい。助けてほしい。

 

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 短い間にたくさんの思い出があってどこか感覚がバグってしまうのだが、NiziUは正式なデビューから2年も経っていないらしい。他に自分がガッツリと参戦している公演がTWICEくらいなので、どうしてもそちらを思い出しながらになってしまうのだが、その活動年数の違いから両グループでは楽曲数に差があるし、それゆえに僕が生で聴いてみたいと思う楽曲や見てみたいと思うパフォーマンスの数にも差がある。それでもなお、彼女たちの公演にまた参戦したいと強く思ったのは、ただ「そこにいたいから」という気持ちによるところが大きいと思う。

 彼女たちを初めて知ったのはNiziUがNiziUではなかった頃で、(さすがにどこにでもはいないと思うが)普通のOrdinary Girlsを一歩だけ抜け出した、そんな時期である。だから、彼女たちがこのステージに立つまでに紡いできた歴史の表層については、大部分をリアルタイムでともに進んできたとも言えるし、実際、短いながらも深くて濃厚なNiziUが歩んだ時間が僕の中にも蓄積されているように感じられる。きっとオーディション番組で生まれたグループのファンは少なからず似た感覚を持っているのだと思うが、やはりONCEでもある自分にとっては、その気持ちに隣り合って存在するTWICEを好きでいた時間までが積み重なって、特別に拡張されているように思う。そして、この感覚は代々木まで足を運ばずとも日々抱いているつもりだったのだが、初めてNiziUと出会ったとき、涙を流す姿を見たとき、あるいは閉幕直後に東京ドームでの公演が発表されたあのとき、歴史を刻んでいくまさにその瞬間に立ち会えることの幸せを知った。

 どれだけ親しかろうと、他人の気持ちや経験というものを手に取るように理解することはできないし、もちろん自分とは全く立場の違う人間が過ごしてきた時間や、それに伴って生じる感情などわかるはずもない。だから、アイドルが流す涙に対して文字通り「共感する」ことは難しく、共感できたと思うのは勘違いに近いのではないかとすら思っていた。しかし、その誕生からずっと追ってきたNiziUの流す涙を見たとき、ほんの少しだけ「わかる」と言わせてほしいと思った。安易にシンデレラストーリーなどと呼ぶことはできない、彼女たちがこれまで重ねてきた努力や苦労について、僕はほんの一部しか知らないし、もっと言えばそこに対して僕よりもはるかに熱心な想いを持つWithUが大多数だと思う。そんな立場から言うのも肩身が狭いのだが、足を踏み入れるだけで圧倒されるような広さの会場の中で、倉庫みたいだった東京予選の会場に想いを馳せると、そんな僕にも何かをわからせてほしくなるのだ。そして、募る想いを「わからないなりにわかる」ためには、できるだけそこにいたいと思った。

 

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 会場の外に出ると、アスファルトが濡れていた。綺麗な虹を眺めていた間に、僕が知ることのないまま雨が降り、そしてすっかり止んでしまったなんて、本当に別世界の出来事みたいだと思った。

 ここに書ききれなかったこと以外にも、メンバーそれぞれが伝えてくれた言葉だったり、この公演を経て急激に好きになった『Joyful』だったり、はたまた幕間で完璧なダンスを披露したお姉さんだったり、共有したい出来事と感情は山ほどある。ただ、その有り余るほどの幸せたちは、それを実際に味わった誰かと会って、一緒に「あれ良かったよね......」とだけ言いながら長い余韻に浸るときにでも残しておこうと思う。

 最後に、クラッパーの下部を縛って持ちやすくするための輪ゴムを分けてくださった、隣の座席のWithUに心から感謝します。そのライフハックならぬライブハックを身につけられる人生は、きっと最高だと思います。そして、ここまで読んでくださった方も、本当にありがとうございました。

 

 もし叶うならば、東京ドームでもNiziUに会いたい。この前よりもずっと短い、会えない時を超えて。

I'm drunk in you.

 水道橋駅の改札をくぐり抜けて、東京ドームを見上げた視界に広がる大勢のONCEの後ろ姿は、すぐそこに本当にTWICEが存在するのだ、という事実を僕に一瞬で突きつけた。

 逆に、そうやって人だかりを目にするまで、TWICEと会えることへの実感は得られなかったし、それは2年半というブランクがその実感の抱き方を忘れるほどに長かったことを意味しているのかもしれない。本音を言えば、自分でも気づかぬうちにあの頃の熱量を失ってしまったのかと、いやに落ち着いている自分自身を心配していたのだが、失ったのは熱量そのものではなく熱量の自覚の仕方だったようだ。東京ドームを目指すONCEの隊列が、AEDのように僕の心拍数を取り戻してくれて、ようやく水を得た魚、もとい現場を得たオタクへと全身のモードを切り替えることが叶った。You're my heart shaker.

 そうして僕自身も大勢のONCEの一員となり、東京ドームのゲートに向かって歩みを進めていると、興奮した様子の人々から揚力を得たようで、見事なまでに浮き足立ってきた。そもそも「人混みをかき分ける」という行為自体がかなり久しぶりであり、かつてのそれ以上に強烈な非日常を感じさせる。現実味とは厄介なもので、あまりに普段通りでも、あまりに日常からかけ離れていても、どちらにせよ薄れてしまう。だからだろうか、TWICEの現場でしか出会わない多種多様な人間の中を流されながら、なんだか白昼夢を見ているような気分にすら陥った(ところで、Dreamday以来の東京ドームでDaydream [白昼夢] という洒落を思いつきました)。

 

◯ ◯ ◯

 

 馴染みのONCEと合流し、Twitter以外の感情の行き場をようやく用意できたところで、いよいよ東京ドームに入場した。手荷物検査なんて一体いつ以来だっただろうか。そういえば、最初に感染対策ゆえに消滅した(そして最近そのまま行方を眩ました)イベントは、東京ドームシティでの『&TWICE』お渡し会だった。その次が、TWICELIGHTSの東京ドーム公演だった。ここまで来ると、アイドルではなくただのオタクなのに、東京ドームは実質「約束の地」と化していて、入場できるというただそれだけで何か尊い気持ちにさせられる。

 電話が通じにくかったり、飲み物を買うだけで列を成さなければならなかったり、あらゆる場面で周りにいる人間の多さと、人間が多いという状態の懐かしさを感じた。正直、ONCEという集団を目にするたびに、属性的にもマインド的にも自分は少数派だという自覚や、どこか水が合わないような居心地の悪さがあった。しかし、その群衆を眺めながら「あらゆる人種が揃っているなぁ」なんて話していたら、ある意味ここに多数派など存在せず、全員が少数派なのではないかという気づきを得た。どこか別の場所で出会ったとしたら水と油のように思える人でも、同じくTWICEを好きでいられるというのは本当にすごい。水にも油にも馴染むって、界面活性剤か?(伝わらない例え)

 開演時刻が近づき、お互いの幸せな時間を願ってから一人になった後、ドームの端のほうに立っていた売り子のお姉さんからアイスコーヒーを購入した。なぜだろうか、アイスコーヒーは他の飲み物とは違って、まずコップに氷を入れ、そこに魔法瓶から注ぎ込むというスタイルで販売していた。その少しだけ時間のかかる作業工程のおかげで、いよいよ落ち着けなくなりつつあったところに、お姉さんとのお話し会が始まった。「もうすぐ始まりますねー」「そうですねー」「ミルクやガムシロップは要りますか?」「大丈夫です」「300円になります」「ICカードで」「ありがとうございました、楽しんできてください!」「はい、ありがとうございます!」

 本当にありがとうございました。コーヒーを頼んだ辺りでようやくかつての感覚を思い出したんですが、会場に暗闇が訪れるまでのこの時間がいちばん落ち着かないので。

 

◯ ◯ ◯

 

 感情が込み上げてきて涙を流す動物は人間だけだそうだが、その仕組みをコップの比喩を用いて説明することがある。心の中に「感情のコップ」が存在し、さまざまな出来事で生じた感情は水のようにその中に蓄積されていく。そして、コップが溢れたときに人は涙を流す。この説明の科学的な妥当性はさておき、「胸がいっぱいになって泣き出す」といった経験上のイメージとは合致するため、感覚的には理解しやすい説明という気がする。

 例えば、映画や小説など、物語に触れた際に感動して泣くという体験を、このコップの比喩に沿って考えてみる。この場合は大抵、登場人物に感情移入したり、主人公を自分と重ね合わせたりして泣くわけで、そうするためには一度自分自身の日常からは離脱し、物語に没入する必要がある。となると、物語が始まると同時に、自分が日常で使っているものとは別の、その物語専用の空っぽのコップを渡され、物語が進むにつれてたまっていく感情の水をクライマックスで溢れさせている、ということになると思う。

 一方で、卒業式で泣くとか、大会で優勝して泣くとか、その類の感動というものは、自分の人生に足をつけたまま涙を流しているという点において、先ほどの物語に触れた場合とは性質が異なる。つまりは、自分が人生において普段使いしている「メインのコップ」にたまった水が、何か特別なタイミングで溢れているのである。ありきたりな表現をすれば「人生の主人公は自分自身」みたいな話になってしまうが、何かに投影するでもなく、こうやって自らの人生に対して直接的に泣ける体験というのは滅多にないように思う。

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 自分の感情を自覚する間も与えられずに涙を流したあの瞬間、暗闇にすっと包みこまれたばかりの客席で "The Feels" のイントロを聴いたあの瞬間を振り返ってみると、僕はその「滅多にない」体験をしたのだと思っている。TWICEに会えなかった2年半という時間の中、僕の日常はTWICEと共にあり、そうやって抱いた感情は「メインのコップ」に滴り続けていた。たまりにたまっていた感情は溢れる機会を得られなかっただけであり、そんな中で迎えたドーム公演なんて、表面張力がギリギリ支えてくれているに過ぎないひたひたのコップを持参して臨んでいるようなものである。だから、開演0秒後で流れ出た涙は、他の誰かの感情に共感したのではなく、自分自身が過ごしてきた時間に対して「自分のまま泣けた」体験であり、紛れもなく人生にとって特別な瞬間だったと思えてならない。

 加えて涙の呼び水となったのは、きっとその他大勢のONCEの存在だろう。一人でばかり聴いていたその楽曲を、TWICE本人たちと一緒に、そして自分と同じようにTWICEを好きなままこの日を待っていた大勢のONCEと一緒に共有できているその時空間は、あまりに懐かしくて強烈だった。数時間前に改札を出た瞬間と同じく、数えきれないほどのONCEがキャンディーボンを振りながらステージに視線を注いでいるというその状況こそが、自分の視線の先にTWICEが立っているという夢のような事態に現実味を与えてくれた。もしかしたら、自分が抱いてきた感情と、そこにいる全員のTWICEを想う感情の圧に揺られて、コップは溢れるどころかぶっ倒れたのかもしれない。

 TWICEに会える日というのは当たり前に特別だけれども、TWICEに会えない日々も、好きでいることによって少しだけ特別だと僕は思っている。それに、会えない日々とは「会える日を待っている日」なのである。僕にとってTWICEは、そういう風に日常、もっと言えば人生自体を常に少しばかり彩ってくれている存在であり、だからこそ、TWICEと会ったその瞬間、自分の中に流れた時間に対して泣けたのだと感じる。

 

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 "What is Love?" で泣き、"Dance the Night Away" でも泣き、目に焼き付けたい曲ほど視界が水中になってしまうというオタクジレンマと戦いながら、幸せな時間を過ごした。幸せとは何かを思い出す時間を過ごした、と表現するのが適切かもしれない。もちろん、一曲一曲それぞれに感じた想いがあったのだが、この想いはその瞬間だけでなく、その曲を聴いてきたこれまでの各瞬間の総和であって、ここでは語りきれないため割愛する。Twitterを見れば、きっとたくさんのONCEが曲に対する感想を呟いているはずで、僕個人ではなく、そういった想いの集合体を眺めることが、東京ドームの残り香を感じるのに最も適したやり方だと思う。

 とにかく、TWICEから発せられるエネルギーの波に呑まれながら、自分自身の涙にも溺れるような、そんな体験だった。ルーレット、ステージの下に沈んでいかないで。

 

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 東京ドームから押し出され、すっきりと空っぽになったアイスコーヒーのコップをゴミ箱に収める。人々の間を流されながらも、なんとかONCEとの再会を果たして、感想を言ったり言わなかったりしながら、少し離れた御茶ノ水へと向かった。

 時刻と情勢を理由にどこの店にも入ることができず、屋外に雑然と置かれたテーブルに座って過ごした時間は、つい先ほどまで自分の周りに広がっていた空間への信じられなさと、ずっと待ち望んでいた日が終わっていく切なさに満ちていた。特別な夜を終えた後の、明日が来るまで流れ続ける「残りの夜」は、普段の日常的な夜と比べてよっぽど、その日が終わることを強く意識させてくる。たまに口を開いて出てくる言葉も、頭からはみ出してしまった余韻でしかなくて、すぐに夜に吸われて消えていく泡沫のようだった。bubbleよりもだいぶ泡。

 想いを語りきれないというより、語りたいことをまだ言葉として自分の中にすら飲み込めないまま、別れを告げて一人になった。静かな改札をくぐり抜け、非日常から日常へと再び運び出される。最高に満ち足りたような、それでいて何かを掴み損ねているような、イベントの帰り道というのは、毎回こんな気分だったことを思い出す。

 さようなら、御茶ノ水。

 

 TWICE、また会う日まで。