TWICEは凄すぎる。
その軌跡はあまりにも「物語」で、彼女たちの10年間の出来事をただ時系列に辿っていくだけでも、きっと上質で感動的なドキュメンタリーに仕上げることができるはずだ。
しかし、そんなありきたりに逃げることなく、TWICEの本質を捉えるためのドキュメンタリーを作るとしたら、どんな方法が考えられるだろうか?
この問いに対して『ONE IN A MILL10N』という映画が出した、メンバーを一人ずつ純粋に掘り下げていくという回答は、TWICEだからこそ成り立つという意味でも、間違いなく正解のひとつだと思わされた。TWICEは人生。

劇中でジヒョは「TWICEには明確なコンセプトがない」と口にした。名前の由来である「いい音楽で一度、素晴らしいパフォーマンスで二度魅了させる」は、良いアーティストであること自体をコンセプトだと言っているようなものだ。今となってはそれを体現できてしまっているのがTWICEの凄さではあるのだが、確かによく考えてみると、とても抽象的な理想だけが掲げられているという感じがしないでもない。
しかし同時に、J.Y.Parkは「TWICEのパフォーマンスにはメンバーの人柄が反映されている」と評しており、コンセプトとは違うのかもしれないが、僕もそれこそが根幹だと思う。
言うなれば「TWICEのコンセプトはTWICE」ということだ。楽曲に決まった雰囲気や曲調があるわけでもなく、歌詞に一貫した方向性のメッセージを込めようとしているわけでもない。しかし、なぜだかTWICEの楽曲には、初めて聴いても「これはTWICE!」と感じさせる雰囲気に満ち溢れていて、このヌッキム(느낌)が9人の人柄や個性によって作り上げられてきた「TWICEらしさ」だという気がする。
そして、彼女たちの人柄が作り上げているものは、パフォーマンスという「表舞台」だけではないという事実を、映画を通してもう一度念押しされたような感覚がした。ここでは「表舞台」に対して「舞台裏」と呼んでおくが、できる限り最高の作品や完璧なステージを生み出すために、あるいはその道中でぶつかる険しい壁を乗り越えるために、9人の人格と関係性を尽くして「舞台裏」を生きている。我々からは、ドキュメンタリーのような場を通してしか見えることのない時間にも、パフォーマンス以上に人柄が緻密に織り込まれているのだろう。
まとめると、表舞台にも舞台裏にも人柄が色濃く反映されている、ということがTWICEの素晴らしさであり、言い換えれば、彼女たちの人柄ゆえに、10年間多くのファンに愛され、10年間存続してきてくれたと言うことができる。だから、彼女たち一人一人の内面に迫ることは「いかにして10周年を迎えられたのか」という軌跡について、これまで起きたさまざまな出来事の羅列以上に多くを語ることになりうるのだと思った。
さて、ナヨンの『STUCK』の話をしてもいいですか?極めて勝手な推測で申し訳ないが、あれを我々に食らわせるタイミングについて、制作陣は頭を悩ませた時間があったのではないだろうか。TWICEを語るうえでナヨンの話を序盤にせずにはいられないし、ONCEへの想いをあれほどまで美しく歌声に乗せられてしまうと、適切な文脈なく無造作に挟み込むわけにはいかないのである。ドキュメンタリーを観に行くという心構えの死角から、恐ろしい威力で打ち込まれた弾丸のようで、映画館に座っていながらにして、その感動の種類は東京ドームで感じたそれにも近かった。
あのメンバーを揃えながら、ナヨンにこそセンターが似合うのは、内面を「表舞台」に表現する能力がずば抜けていることがその理由だと思う。先述の「TWICEらしさ」の権化なのである。また、属性は違えど近い能力を持っているのがチェヨンなのかもしれない、と劇中のインタビューに感じた。チェヨンは、自らの個性を世界に対して表現することを強く望んでいて「今よりもアイドルを多様化したい」とすら語っていた。カッコ良すぎる。それに、きっと本当にそうなるだろう。いま思えば、この2人のSIXTEENの頃からの安定感は、表現者としての才能に起因しているんだろうなという気がした。
また、劇中のパフォーマンスでも恐ろしい高みを目指そうとすることからもわかる通り、モモとジヒョは、その人格を想像以上に「舞台裏」で発揮しているのだと思い知った。
ジョンヨンが冗談まじりに「ダンスがうまいから仕方ない」とTWICEのパフォーマンスにおけるモモの働きを表していたが、おそらくこれはガチな話で、彼女には生まれ持った才能の責任を負っているようなところがあるのだと思う。あの日名前を呼ばれたことも、歌の努力を欠かさないことも、圧倒的な能力の存在が根底となっていると思うと、自分の中でも何か見方が変わったような気持ちがした。名も知らぬONCEの言葉を借りれば、まさに「痺れる」人だ。
そして「誰がリーダーでも良いリーダーになっていたはず」はハッとするほどTWICEのことを言い表した名言だが、それでも俺たち(?)のリーダーはジヒョだよな、と思う。過去の自らのステージに対しても、もっとできたと厳しい視線を向けがちな彼女が目指している完璧は、高得点というより「減点が無いこと」であるような気がする。マイナスをゼロに修正する、TWICEの品質管理責任者と言うイメージが浮かぶ。「減点が無いこと」イコール何も起きないということであり、それを我々が意識するのは難しいのだが、トラブルなくパフォーマンスを楽しめるのはジヒョのおかげなのだろうと、そのシゴデキぶりには今一度感謝を捧げざるを得ない。
彼女たちの人柄がTWICEの本質であると考えたとき、つまりは「TWICEとは彼女たちの人生である」という事実にも正面から向き合う必要がある、と映画を通して思った。
我々ONCEが感じているTWICEは、先ほどの表現で言えばそのほとんどが「表舞台」に過ぎない。もちろん、日々の原動力でもあり、通勤通学を共にする音楽でもあり、家に帰って一息ついた後のとっておきでもあり、TWICEが人生を支えてくれている大切な存在であることに疑う余地は一切ない。しかし、それは我々が生きざるを得ない「日常」の本筋とは異なる位置にあり、いわば特別な「非日常」としての側面が強い。「TWICEは人生」なのだが、同時にどこまで行っても「TWICEは人生ではない」のだとも気づく。
一方で、メンバーが感じているTWICEは「舞台裏」がその多くを占める。メンバーにとってTWICEとして活動することは「日常」であり、その環境・過酷さ・常識はまるっきり違うものの、我々の「日常」とも共通するような、早起きに悩んで退勤に歓喜する、生活的な側面もそこにはある。その意味で、9人にとっては本当に「TWICEは人生」なのだ。
すみません、複雑になってきたのでちょっと図解します!

この立場や感覚の違いは、どうしてもお互いに共感することができない。たとえ部分的には重なっても、僕が「TWICEが名前の一部」だと思える日は永遠に来ない。そして個人的にはその事実が、映画館を出た後の傘を差しながらの帰り道にも、ずしんと心に残りつづけて消えない感覚がした。
海外で巨大なステージに立つことに対して、「現実味が無い」「こうなれるとは思っていなかった」と彼女たちは口にしていたが、その実感の薄さの正体のひとつは、この立場の違いから、TWICEのパフォーマンスがどれだけ素晴らしいものなのかということを、本人たちが自覚しきれないからなのでは?と想像した。自らが作り上げたものに対して、純粋な受け手の目線を持つことは困難だと思う。「ONCEになれたら自分たちのステージを見てみたい」というのは、そういう意味を含んでいるのではないだろうか。これも当然「想像」にとどまるしかないのだけれど。
彼女たちからすると、「日常」の中で「舞台裏」での努力を必死に積み重ねていたら、幸運なことになぜか多くのONCEが愛してくれて、大きな舞台に立てる日が訪れていた、という世界観なのかもしれない。あんなにとんでもないのに。
そして重要なのは、逆に我々は、TWICEの人生に対して無自覚にならざるを得ない部分があるということだ。同じく巨大なステージに立つ例で考えてみると、そのニュースが飛び込んできたとき、TWICEに対する誇らしさや畏敬の念は改めて抱くものの、反面「TWICEならあり得るか」とどこか納得してしまうような心持ちになる。
海外の音楽関係者は、埋めたドームの席数やランキングの順位など、数字としての功績・成果でTWICEを評価していた。身勝手な主観で言えば、僕はそういった数字にほとんど興味がない。評価者ではなくファンなので。自分はTWICEの魅力を十分に感じており、それ自体が幸せにつながっているわけだから、数字で好きな気持ちが変わることはないな、とも思う。しかし「舞台裏」を生きるTWICEにしてみれば、その功績はまさに人生における「努力の結実」であり「夢の実現」という極めて重要なゴールのひとつなのだろう、と想像される。
我々は、TWICEの「舞台裏」を限られた情報から想像することしかできない。いや、その想像さえ信用できるものではなく、TWICEの活動の下で常に横たわっている9人の人生について考えることの難しさを、心に留めなければいけない気がしている。当然、ドキュメンタリーでも不十分だ。あの『CACTUS』は間違っても「泣けるコンテンツ」などという表現で消費していいものではないはずなのだけれど、でも僕はとにかく受け取る以外の、それ以上の寄り添う方法を何ひとつ持たないのだ。
改めて、TWICEとは彼女たち9人の人生そのものでもある。だから、我々がTWICEに願う未来や、これまで願ってきた過去は、本来彼女たち自身にしか決められない人生の選択である。願うべきではないということではなく、文字通り「願うことしかできない」と知りながら願うべきなのだ、と思った。
では、TWICEとONCEはそれぞれ独立した存在なのかというと、これもまたそんな単純な話ではないとも感じている。お互いの立場や感覚には分かりようのない部分もあるということは認めるべきだが、また一方で、その違いを大切に思い、人生に間違いなく影響を及ぼしてあってはいるのである。
我々は日常的に、TWICEのために貯金をしたり、TWICEのために時間を作ったり、TWICEのために生活を頑張ったりしている。ここで言う「TWICEのため」とは言葉のあやのようなもので、結局のところ「自分のため」とするほうが適切に思える。自分が会いたい・見たいから、勝手にその行動を選択しているわけだ。しかしもう少し俯瞰して捉えてみると、これらの行動は自分一人では極めて微力ながら、売上などの形で実際に「TWICEのため」になっていたりもする行動である。
上記の例と規模が違いすぎるということは前提としつつ、TWICEの皆さんの行動選択においても、「ONCEのため」が「彼女たち自身のため」と少しばかりは重なってくれているのではないかと、再契約について語るシーンを観ながら信じたくなった。カムバなどの際にも「ONCEのために準備した」といった言葉をよく口にしており、それはまず本当に感謝してもしきれない今日この頃なのだが、何かを選択するという場面において、ONCEの存在が単なるプレッシャーや負荷ではなく、彼女たちの中に内面化されてポジティブな後押しにも繋がっていたら嬉しいなと思う。大変恐縮ですが。
その意味で、TWICEというグループのこれからは、再契約のときと同じく、ONCEの願いも踏まえたうえでの、TWICEの選択によって決断されるのだろう。とは言え、T型だろうとF型だろうと、人間にネバーランド的な真の永遠は訪れず、残念ながら「変わらない」という選択肢は存在しない。同じ姿・同じ内容の公演を何十年も続けていくこと、10年前のような献身の仕方でもって「TWICE = 人生」を継続していくことは、どうしても現実的にあり得ず、何らかの変化を含んだ人生の選択が行われていくはずである。
そういう視点を持って劇中で扱われた出来事を振り返ってみたときに、近年のメンバーそれぞれの新しい「挑戦」は、彼女たちにとってのTWICEというグループの位置付けを「人生の全て」から「人生の一部」に変容させていく過程であるようにも映った。どんな未来になろうとも、9人がTWICEを背負って生きていくことに変わりはない。ただ、ソロやユニット、MCに俳優にモデルなど、その形を多様化させ、グループ活動とは別の「日常」も作り出すことが、もはやグループという枠組みを超えて、概念としての「TWICE」が活動を続けていくための選択になりうるのかもしれないと、未来を想像させられた。
「ミナの人生に楽しみが増えるように」というリーダーの苦心と心遣いが目指していたのは、いわば「TWICE = 人生」という構図からの逸脱であるようにも思う。「非日常」とまでは行かないだろうが、TWICEにとっても、これからのTWICEとしての時間になるべく多くの幸せが詰まっていてほしい。「推しに幸せでいてほしい」ので。
思うに、ONCEによるTWICEへの愛と、TWICEによるTWICEへの愛とが並び立ち、揃い合わさることで成し遂げられたのが、この10周年なのだろう。その愛の背景には、彼女たちの人柄から生み出される、「TWICEらしさ」満載のパフォーマンスと、お互いを支え合いながらの圧倒的な努力が存在し、そうやって「人生」が尽くされてきたのだと思った。
この壮大な愛が、この先どのような形を取っていくのかについて、僕にはただ願うことしかできない。しかし、今まずここに10周年という形で積み上げられているというその事実が、こんなにも長々と言葉を尽くしたくなるほど大切で、言葉では言い表せないほど尊いものなのだと、『ONE IN A MILL10N』を通して強く感じさせられている。
こんなにも愛に溢れたグループが生まれることってあり得るのだろうか。100万分の1ではきかない奇跡だと、僕は思う。