Ⅰ:「推し活」という言葉
どうにも「推し活」という言葉が好きになれない。
語末の「活」に、余計な主体性を感じるからである。
誰かのファンであることは、その対象が世界の中心として語られるべき、あくまで受動的な営みだと思っているからである。何かのオタクであることは、その感情や状態を軸に活動が付随しているのであって、自分を主語にした行動でもって語ろうとすることに、違和感があるからである。
これらは自らのオタク的立場の表明に過ぎず、別に言葉狩りをしたいわけではない。自分からこの言葉を選択することはしないものの、自分の行動の一部が「推し活」に分類され、そう呼称されるような場面では、ひとまず受け入れることもある。
ただ、この「受動的なのに主体的ぶる」「主体性を押し出す」ようなニュアンスが、「推し活」に含まれるさまざまな言動に偏ったステレオタイプを生み出し、結果的にそのような言動全体を毀損させたり、誤解させたりしてしまう瞬間を作りうるのでは、とは思う。
過激な熱狂や課金という「活動」のイメージが、わかりやすい批判の的の役割を果たす。「推し活」をしている側の人間が、何かが正当化されたかのごとく嬉々として「活動」に胸を張ることで、逆にその「活動」というベールを剥ぎとろうとする人間が現れる。そして、結局は他者依存的であるという性質を発掘した彼らが、自分のためにならないという論点を振りかざして攻撃を開始する。良かれと思っての中途半端なパッケージが、言葉を実態から離れさせ、叩かれる隙を与えている感じがする。
この言葉が纏ってしまったそういう匂いに対して、『推したちとどう生きるか』は、実際の「推し活」がより幅広く豊かに広がっているのだという現実を、まえがきで最初に示してくれている。渦中に立つ人間の声が聞こえてきて、推しに関する議論で久しぶりに共感できるという事実が、まずは嬉しい。
ともに語られる、推しの存在がハレとケにおける「ケの日常」にも浸透している、という内容は、同じ言葉遣いでコロナ禍の頃の記事(『BETTER』)に自分も書いていて、心から頷けた。下記は該当記事からの引用だが、我ながら良いことを言っている。これはいわば「推し活」において活動や行動を伴う必要性はなく、感情や状態こそがその本質であるという主張であって、この思想は6年経った現在でも全く変わらない。
もっと言えば、何か具体的なモノを観たり聴いたりしなくとも、TWICEのことを考えている時間は僕にとって幸せな時間であり、それはただTWICEを好きであるという事実のみによってもたらされる幸せだ。
思うに、「推し活」という言葉によって、推しとともにあるさまざまな文脈が、わかりやすい行動にばかりフォーカスされやすくなっていることで、その裏にある感情という本質を見失わせているのではないだろうか。そしてこれは、成長や貢献といった「主体的な行動」を正しい・良いものとする世間的な価値基準の土俵に、推しにまつわる営みを乗せようとしたエラーに起因している気がする。
Ⅱ:「好き」という感情
自分を含め、本書を読んだ多くの人にとって、きっと印象に残るのは、あとがきに書かれた甲子園での「全員が敵に見えた」エピソードだろう。大差のリードからの逆転劇が始まったとき、観客全体が負けているチームを応援するべく、ぐるぐるとタオルを回し始めたという。投手からしてみれば、確かに間違いなく全員が敵である。集団が、集団であるがゆえに、無意識の悪意や残酷さを持ちうるという話である。
昔、ポケモン剣盾にまつわる話を書いた際に、ゲーム内のチャンピオン・ダンデのこんな言葉を引用したことがあり、これを書いたときの感情を思い出した。
『いいかい?彼ら 観客は どちらかが 負けることを 願う 残酷な 人々でも ある!』
音楽番組のランキング、ストリーミングの回数など、誰かを応援することは、ときに集団どうしの「比較」や「競争」に巻き込まれる仕組みになっている。ただ一人で好きなだけで、緊張感のある「団体戦」をしたいわけでは無いのにと思い、それゆえ、そこに加担することをどこか不本意だと感じていた(し、今もそう思っているので積極的には参加しづらい)。
念のため言っておくと、ファンダムの活動を否定したい気持ちは一切ない。そこにこそ、推すことのやりがいや楽しさを感じている人も多いだろうし、もう少しライトな部分の話で言えば、自分もタイムラインでオタク同士の交流を楽しんでいる。ただ、何か特定の行動が「推しのため」といった名目で絶対的な正しさとして機能してしまうこと、そのルールから外れた人を悪のようにみなすこと、あるいは「〇〇しなければならない」という義務が個人の中に発生することは、幸せから遠ざかっている感覚がある。
結局はこれも、自分の中にある個人的な感情こそが本質、という主張から繋がっていて、自分自身の「好き」から始まった物語なのだから、自分が何を感じるか、自分が何をしたいのか、が最も大切なはずだ。だから、集団としての「正しさ」を気にしたり、周りの目を意識しすぎたりすることで、個人的な感情を蔑ろにして削ぎ落としてしまうのは、最初に感じた「好き」を歪めているようでもったいない、と思う。
円盤を買わなくても、公演に参戦できなくても、全ての動画をすぐさま見なくても、いいねがもらえないようなツイートをしても、別にあなたの「好き」は損なわれない。好きかどうかは、他の誰かではなく、自分の感情が唯一の答えなので。
Ⅲ:「意味」という束縛
ところで、ここまでで考えた「ファン集団 vs その中の個人」という対比は、「世間という集団 vs 推しを持つ個人」という対比にも拡張することができると思っている。
世間から「推し活」が批判されがちである理由の一つとして、その言葉が「活動」のイメージや余計な主体性を帯びていることを挙げたが、そもそも、活動だから認められるべきだとか、主体性に欠けているから無意味だとか、そういった議論をしている時点で、世間における「正しさ」という、非常に大きな集団のルールに乗っかってしまっている。
自分を顧みず、他者に依存する推し活には意味がない、という主張がある。
コミュニティの拡張や自分磨きにも繋がるのだから価値がある、という反論がある。
目の前の人間関係や現実からの逃避であり、何の役にも立たない、という批判がある。
経済への貢献をしているのだから、社会にもメリットを生む、という意見がある。
この全部が、的外れに思えてしまう。意味や目的に囚われている段階で、社会や誰かの作った価値基準をもとに「正しさ」を見出そうとしてしまっている。「好き」や「推す」を始めるきっかけだったはずの個人の感情は、無意識の中でもうどこかに棄てられている。
この現代社会で暮らしていると、全てのことに意味や目的を求める癖がつきやすいのだと思う。自分を成長させなければならない。役に立つ価値を創り出すべきだ。そういう、言ってしまえば資本主義的な「正しさ」をそれぞれが内面化してしまい、無意識にその基準とルールでもって、あらゆることを判断しようとしている気がする。「意味がある」ということばかりに安心して、知らぬうちに意味だけを喰らうようにして生きてしまう。
でも、何かを好きであるという感情や、その感情から純粋に湧き立った行動は、意味や目的を持たない。なぜなら、好きであることそれ自体がゴールだからである。好きだと感じた段階で、意味なんて満たし切っているのだ。社会や誰かの価値基準は一切関係なく、そうあることが、それだけで幸せなのである。
裏を返せば、どんなものにも意味を求めてしまうのは、何が幸せなのかというゴールを忘れている状態なのかもしれない。生きていくためには、もちろん自分の成長や価値も重要だ。では、成長した先で、自分が本当にやりたいことは何なのか。そのゴールが分からぬままに、意味だけを追い求めているのだとしたらそれは、身を滅ぼすほど推し活に呑まれてしまう人と同じくらい、盲目的なのでは無いだろうか。
ちなみに、対「推し活」の意見としては、きっと過度な浪費や依存の問題が思い浮かぶだろうが、まず前半に述べたようにそれだけが「推し活」ではない。また、それは「推し活」だけの問題ではない。他の趣味、あるいは趣味の外側ですらその可能性は発生し得る。そもそも、どんなことでも全振りにリスクがあることは当たり前の話で、それは自己投資や仕事など、「正しい」とされているものが対象だとしても、同じことが言えると思う。自戒も込めての結論にはなるが、大事なのはそのバランスを欠かないことなのだろう。
そして付け加えると、ファンダムの活動を否定しないのと同じように、この論において、決して「成長」それ自体を揶揄したり、否定したりするつもりは毛頭ない。勉強・筋トレ・美容・資格、そういった自己成長に関わる行為それ自体に「好き」や「幸せ」を見出す人もいるだろうし、対象は違えど、好きなものへの熱中という文脈は同一だからである。
集団の価値観と個人の趣味嗜好の方向性が合うかどうかは、もはや偶然や運のようなものだと思う。ただ、その一致不一致はさておき、誰しもが意味に踊らされることなく、個人の本心から好きなものを好きでいてほしい。そう思っている。
おわりに
何かを好きな感情、そして何を好きだと思うのかという価値観は、真に個人のものであると言いたい。だから自分自身で守らなければいけないし、同時に、だから他人を攻撃する武器にはなり得ないのである。
自分の感情を大切にすること。
自分の物差しを「正しさ」として他人に振りかざさないこと。
本を読みながら、そんな穏やかな距離感が守られる世界であってくれたらと考えて、この文章を書くことにした。
アイドルでも、小説でも、ゲームでも、好きなものに出会えた瞬間というのは、本当に嬉しい。自分にとっての幸せが増え、まさに人生が豊かになる瞬間だからである。何かを愛して、何かに夢中になった時間を、僕は大切に抱えながら生きていく。
いずれその姿が、変わりゆくとしても。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
──あなたの好きなものは、なんですか?

