主人公は、アイドルのように

 ポケモンセンターは、幕張メッセのように

 11月15日、珍しく早起きをした。開店時間に合わせてポケモンセンターヨコハマにたどり着くためだ。この日はポケットモンスター完全新作『ポケットモンスター ソード・シールド』の発売日。店舗予約をしていた僕が、最も早く新作を手にする方法は開店直後の待機列に並ぶことだった。大好きな存在と出会うまでに、長蛇の列を構成する一員となることには慣れている。慣れすぎている。ダウンロード版にすれば0時から冒険を始められるし、起床時間も待機時間も関係ない。それでも僕が店舗受取を選ぶのは、手にした瞬間のえも言われぬ高揚感を味わいたいからだ。まだ小学生だった、10年以上前の僕と同じ気持ちを抱けることが嬉しいからだ。

 僕はポケモンが好きだ。いちばん長い間、好きを続けているものだ。

 僕はアイドルも好きだ。いちばん熱を込めて、好きをぶつけているものだ。

 両者は交わらないものだと思っていた。例えば、推しているアイドルがポケモンのぬいぐるみを持つことがある。ただ、僕のポケモンに対する気持ちは、一つのぬいぐるみに担わせるには重すぎる。そのぬいぐるみがその場所で果たしている役割は、ほとんどの場合で可愛さに過ぎず、背景に広がる物語を持ちあわせてそこに存在しているわけではない。ポケモンとアイドル、僕の中で二つの物語のどちらもが大きすぎるがために、同じ場所に立たせるためには、どちらかが軽視される必要が出てくる。僕のオタクとしての立場で言うならば、一方のオタクとしてエンジョイしている時間というのは、もう一方のオタクである自分が大人しくしている時間だった。無論、好きなものを複数持てることはいいことで、その住み分けを悪いことだと思っていたわけではない。単純に、好きという感情に向き合おうというときに生じる現象として、事実として、そう感じていたということだ。

 興奮に手を震わせながらポケモン新作をプレイしていた僕が、最初にアイドルを想ってしまったのは、いや、アイドルを想えたのは、ジムバッジを1つも持っていないような序盤も序盤だった。あれ、ポケモンをプレイしている最中なのに、なぜだかアイドルのことを考えさせられてるな。ふと気づいた。なんなら、ポケモンの世界観に没入するほど、なおさらアイドルについても考えてしまうな。けっして気が逸れているわけではなかった。ということは、ポケモンをプレイしている最中「なのに」というのは間違っているかもしれないな。そう、ポケモンをプレイしている最中「だから」、僕はアイドルについて考えたのだ。

 今作の舞台はガラル地方。チャンピオンを倒し、ポケモンとともにガラルの大地を飛び回っているいま、僕の中で交差した二つの物語をここに書き残そうと思う。

 

ジムチャレンジは、オーディション番組のように

 このブログ自体を「長くなってしまったツイート置き場」と題している通り、僕の認識としてはTwitterアカウント@pearl_izumoの延長としてこの場を使っている。だから、ここはあくまでアイドルの話をする場である、という弁えのようなものを保っていたいわけだが、今回ばかりはポケモンに関して話す必要があるし、話す意味も十分にあるから、大幅に紙面を割かせていただきたい。

 さて、ポケモンではポケモンバトルという要素がひとつの中核と言える。そもそもはゲームコンテンツという出発点を持つために、ゲーム性を持つバトルの要素が組み込まれたのは自然な成り行きである。ポケモンを捕まえて、育てて、戦わせる。要するに、ポケモンバトルはゲームの典型的な姿として用意された設定のうちのひとつという話だ。だから、ポケモンバトルという制度を作品の世界観という角度から眺めてみると、そこには少しばかり必然性が欠けていた。なぜ人間はポケモンどうしを戦わせるのか?この問いは、ポケモン映画第一作『ミュウツーの逆襲』の時代から問われ続けていたものだった。

 『ポケットモンスター ソード・シールド』は、この問いに対して一応の解答を用意していて、僕が今作をとても気に入っている理由のひとつだ。

ポケモンバトルが一番人気のエンターテインメントとして楽しまれているガラル地方には、ポケモンリーグがあり、各地にポケモンジムと呼ばれる施設が点在している。ポケモンジムのスタジアムでは、ジムリーダーとチャレンジャーがバトルを繰り広げ、たくさんの観戦者による凄まじい熱気と歓声に包まれる。主人公は冒険の途中で、さまざまな人やポケモンと出会いながら、ポケモンジムに挑み、憧れのチャンピオンを目指す。

(『ポケットモンスター ソード・シールド』公式サイトより)

 ポケモンバトルはエンターテインメント。ポケモンバトルという戦いの理由を、我々の世界におけるスポーツに求めた。「なんで戦うの?」「楽しいから!」最も単純で、他者からは否定しにくい解であるように思う。僕がポケモンバトルを愛するのもただ楽しいからだし、ほかのゲームに関しても同じことだ。

 エンターテインメントという説明をポケモンバトルに与えた結果どうなったか。ポケモントレーナーには「サポーター」と呼ばれるファン集団が付随することとなった。お気づきの通り、これが僕の思考において趣味嗜好の小部屋を分け隔てていた壁をぶち破ることとなった。いつもアイドルを応援しながら日々を暮らしている僕が、ガラル地方というパラレルワールドに降り立ったとき、奇しくも応援される側へと立場を改める機会を得たのである。

 ストーリーの序盤、ガラル地方のチャンピオンを目指して、推薦状を持ったポケモントレーナーが巨大なスタジアムで一堂に会するシーンが訪れる。ポケモンバトルが好きな人々で埋め尽くされた客席が映される。主人公たちのことは知らないけれど、そこで行われるポケモンバトルによる勝負というコンテンツを楽しむために集まった人々。彼らは、アイドルのオーディション番組を視聴するオタクと似ている。全員がそうとは言わないが、特定の誰かを見たいというよりも、デビューをかけた争いや結末に至る過程を見たい。その中で好きになれる誰かを見つけたい。そんな動機で開かれた広い入り口が、多くの人々を招き入れるという意味で。

 僕自身がオーディション番組、あるいはリアリティ番組について詳しいわけではないし、これはあくまでついでの連想にすぎない。ここで言いたかったことは要するにこうだ。ゲームの主人公であるところの僕は、観客たちのアイドルになることを目指さなければならないのだ。

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ポケモンジムのスタジアム (『ポケットモンスター ソード・シールド』公式サイトより)

 トレーナーたちはその日からポケモンジムをめぐることになるが、勝利を掴めない場合は脱落し、チャレンジャーの人数が減っていく。一方で、ジムで勝ち続けていくことで名が知れることとなり、ファンが増えていく。設定を元に、そういうストーリーの構成がなされている。また、ストーリーには深く関わらない裏設定ではあるが、ゲーム内ではジムリーダーの選考基準についても言及されている。ジムリーダーも強さによってグループ分けされ、上位のグループにいないとジムを任せてもらえないらしい。彼らは、メジャーとマイナーのグループに分けられているのだ、と。

 僕が今いちばん好きなアイドルはTWICEである。それゆえ、こんな話を聞かされた日には、TWICEのオーディション番組である『SIXTEEN』を連想せずに素通りするなんてことは不可能だ。彼女たちもまた、メジャーとマイナーに分けられていたのだから。ストーリーに組み込まれたジムチャレンジというシステムの概念が、また、単なる名称の一致という同システムの表層が、別の世界に置いておいたはずの物語を匂い立たせた。こうして僕は、ガラル地方の世界観の深みにはまっていく道中に、アイドルに関する思考の断章を織り込んでいった。

 ジムバッジを獲得するほど、主人公は多くのNPCのセリフによって言及される。ジムバトルの前には声援を送られる。スタジアムの客席から期待の眼差しを向けられる。子どもに握手を求められる。そして同時に、あいつの実力ではチャンピオンに勝てないだろう、などとも噂される。勝てば勝つほど、主人公が受動態で語るべき存在に変わっていった。主人公が晒される多種多様な視線、どこか身に覚えのあるその視線は、まさしく僕たちがアイドルに向けていた視線だった。

 

エール団は、オタクのように

 ポケモンというゲームのストーリーでは、たいてい悪の組織が暗躍している。やはりいちばん有名なのはロケット団だろう。したっぱや幹部、そしてボスとのポケモンバトルに勝利し、その悪事を食い止めることがストーリーの一部、あるいは核としての機能を果たす傾向にある。では、『ポケットモンスター ソード・シールド』の悪の組織はどんな奴らなのだろうか?今作の悪の組織に与えられた名前は、エール団だった。

 エールとは、ご存知の通り応援のことである。特にそれ以上の意味が込められているということもなく、そして応援以外の意味が込められていないという事実は悲しい。応援という動機のみが、彼らを悪事に走らせていることを示すからだ。応援している人を高みへとのぼらせるには、その人を押し上げる方法と、それ以外の人を引き下ろす方法の2通りがある。後者を選んでしまうエール団は、人道的には間違っていても、論理的には間違っていないのだろう。

ジムチャレンジの行く先々で現れ、主人公たちの邪魔をするやっかい者の集まり、エール団。彼らは、マリィをチャンピオンにするために活動しており、ほかのチャレンジャーに対して、ホテルを占拠したり、交通手段を奪ったり、バトル中にヤジを飛ばしたりするなどの妨害行為を行ってくる。また、マリィがポケモンバトルをする時には、ブブゼラや、マリィが描かれたタオルを持ったしたっぱたちが、応援に駆けつけるようだ。

(『ポケットモンスター ソード・シールド』公式サイトより)

 彼らは、マリィというトレーナーを応援している。マリィはチャレンジャー、すなわち主人公と対等な立場にあり、彼女自身は定められたルールの上で真っ当に戦っているキャラクターだ。マリィにはズルをしてでも勝ち進もう、エール団の悪行の力を借りて勝ち残ろうという意思はない。だから、エール団の迷惑行為に関して、彼女が主人公に謝罪するというシーンさえ存在する。しかしながら、応援してもらっているという立場にあるために、彼女はエール団を無下にもできないのだ。

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マリィとエール団 (『ポケットモンスター ソード・シールド』公式サイトより)

 残念ながら、これとよく似た現実の場面や関係性を僕はいくつか思い出せてしまう。具体的な事例はさておき、応援とは、推すとは、好きとは何なのかを改めて見直したくなる出来事はときどき起こる。起きてしまう。それに対して、怒りをどれだけ言葉にしたところで解決にはならない、と僕は思う。というか、同じような立場から何を言おうと世界は変わらないのだ。彼らの行動の根底にある"好き"という気持ちは変え難く、行動だけを変えさせることもまた難しい。僕には、怒りの前にこうした諦念が訪れてしまうわけだが、それと似た諦めを抱えながら、主人公としての僕はエール団のしたっぱとのポケモンバトルを重ねることとなる。

 何かを好きであるという気持ちと、その気持ちが実らせる行動との結びつきが歪むのは、怖い。自分だけでは避けられない部分があるような気がするからだ。何かを好きだからこそ外側に向けてしまう刃がきっとあって、結果的にその刃は内側にも向く諸刃になってしまうかもしれないのだ。正しい結びつきを見失ってしまったときに、エール団に響く声があるとしたら、それはマリィの声だけなのだと思う。今作のストーリーにおけるエール団をめぐる顛末は、長くなりそうなのでここでは伏せておこう。

 

チャンピオンは、スーパーアイドルのように

 チャンピオン、その地方で最強のトレーナー。チャンピオンに勝つことは殿堂入りと呼ばれ、ほとんどの作品でそれがゲームのクリアを指す。より分かりやすく言うのであれば、殿堂入りをすることでゲームのエンディングが流れるということだ。今作のチャンピオンであるダンデは、ゲーム開始直後に正体を隠さず現れた。というのも、ダンデは主人公と同じ街の出身、それに留まらずライバルの兄なのだ。

ガラル地方最強のトレーナー、現チャンピオンのダンデ。 初めてジムチャレンジに参加した際に、一度も負けることなくチャンピオンとなったダンデは、その卓越したポケモンバトルのセンスによって、パートナーのリザードンとともに、今も無敗記録を伸ばし続けている。誰が相手でも全力で戦う彼のバトルは、ガラル地方中の人々の心をつかんで離さず、バトルの様子はチャンピオン戦や、エキシビションマッチなどで、見ることができるようだ。

(ポケットモンスター ソード・シールド』公式サイトより)

 その場にいるだけで歓声が上がる。ファンは彼の決めポーズを真似する。まさしく、実力も人気もトップのスーパーアイドルである。初登場のシーンで、この人のファンをやっているのは楽しいだろうな、と純粋に思った。これで伝わるとは思っていないが、音楽番組でBTSのステージを見たときとかなり近い感想である。ただ、主人公の立場としては憧れだけではよろしくないわけで、憧れを抱くのと同時に、チャンピオンと戦い、勝利する瞬間を夢見ることとなる。

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チャンピオン・ダンデ (『ポケットモンスター ソード・シールド』公式サイトより)

 あるとき(この「あるとき」はその台詞が言われるべくして言われるタイミングなのだが、ここでは「あるとき」で留めたい)、チャンピオンはスーパーアイドルならではの台詞を主人公に突きつける。

 『いいかい? 彼ら 観客は どちらかが 負けることを 願う 残酷な 人々でも ある! そんな 怖さを はねのけ ポケモントレーナーとしての すべてを チームとしての すべてを だしきって 勝利を もぎとるのが オレは 好きで 好きで たまらない!』

 この台詞は、今作で最も深く僕の中に刻まれた言葉という気がする。誰かを応援する気持ちの裏側まで理解し、理解したがゆえに生じる怖さや責任も自覚した上で全て背負って、それでいて輝きを放つ人間がチャンピオンに君臨しているのだ。僕が好きなアイドルも、新曲で音楽番組の1位を取ったとき、「期待に応えられるか不安だったけれど、1位を取れて嬉しい」といった内容のスピーチをすることがある。不安や怖さを認めてなお勝てる人間は強い、そう思う。一方のオタクである僕は、アイドルにとってきっと残酷な存在でもあるのだろう。ひと息に悟らされたようだった。 

 そんな背景もあって、今作のチャンピオン戦、僕は今まで戦ってきたどのチャンピオンよりも緊張した。ダンデを倒すということは、ガラル地方中に溢れているダンデのファンに対する責任を伴う行為だ。言葉を借りるなら、ダンデを見にきた観客は、主人公である僕が負けることを願っている。主人公の勝利とはすなわち、無敗のチャンピオンが敗北する姿を、彼のファンに初めて見せつけるということなのである。自分の勝利を残念に思う誰かがいる、自分の勝利で悲しむ誰かがいるという意識を、アイドルはいつもどこかに抱えているのだろうか。

 その緊張に勝たせてくれるのが、今作の戦闘BGM。メロディに合わせた観客の声が入っているのだ。その声は場面によって「オーオーオー」だったり「ハイハイハイ」だったりする。端的に言うならばコールである。それに加えて、ポケモンを倒すたびに、ポケモンが倒れるたびに、観客の歓声が上がる。これを聞くと、BGMの一部だと分かっていても、本当に応援されているような気分になる。ポケモンバトルに向かう気持ちは昂るし、血流は速くなる。そして、なぜか強くこう思わされるのだ。絶対に勝たないといけない。

 所詮はゲームではないか、ゲーム内のNPCに応援されたから何なのだ。そうやって嘲るような意見、広く言えばゲームに対する冷笑的な視線もあるだろうし、実際こうやって可能性としてあげられるくらいには、僕だって頭のどこかではもちろん理解しているつもりだ。ただ少なくとも、ゲームのBGMが持つ意味は受け取りたいものだと思っている。BGMは、その場面に最も合った音楽が当てられているわけだ。ゲームは、全く関係のない曲を聴きながらプレイすることもできるけれど、せっかくBGMを聴いてプレイしているのだったら、BGMの効果を受けてその分余計に感情を動かされたい。今回で言えば、応援する声の存在を知っているのと知らないのとでは、場面に張り巡らされる物語自体が変わる。同じゲームをプレイするなら、より豊かな体験を僕は味わいたい。

 その体験は、いつかまたそのBGMを聴いたときに、ゲームの場面の記憶も、ゲームをプレイしていた頃の自分についても、ふわっと蘇るはずなのだ。好きなアイドルの少し前の曲を聴いたときに、その曲をよく聴いていた季節の空気を思い出す。僕にとっての音楽は、日頃は忘れてしまっている些細な記憶を保管しておいてくれる倉庫みたいなものだ。チャンピオンと戦いながら、この昂りを未来の自分のために閉じ込めておけるなんて最高だなと思った。

 

後語りは、言い訳のように

 語り足りない部分や、人によっては解釈の異なる部分があることは承知しているのだが、この文章の着地点のために厚かましくももう少しだけ書き足させていただきたい。なんだか、書き出しすらすでに言い訳がましくなってしまった。

 ジムチャレンジやチャンピオン戦を筆頭とするポケモンバトル、これらがまるでポケモン新作の全てであるかのように書いてきた。しかし、それは僕がアイドルオタクであって、アイドルオタクという立場を前提としたときの観点を前面へと押し出したにすぎない。ポケモンオタクという立場から語るのであれば、途方もない労力とともに途方もない分量を書く必要があって、それはやるにしても別の場所でやりたいと思う。撫でるくらいに触れておくとすると、ストーリーを通して誰かひとりのことは好きになってしまうような、個性的なキャラクターが揃っていたし、デザインが好きな新ポケモンも多かった。実はストーリーの中核を担うテーマは別にあって、個人的には「大人はどうあるべきか」といったメッセージをそこから受け取ったのだが、ネタバレや解説のような文章を書きたいわけではなかったので、あえて避けて通ったようなところがある。

 さて、今作の製作者の中には、"何かを好きであること"について色々と考えた人がいるのではないかと思っている。僕の思考の癖によって強引にアイドルになぞらえてしまっているのだが、何かを好きだという気持ちはもちろんアイドルに限った話ではない。

 『昔から 好き! とか いっぱい みてる! とかって ファンの アピールなら イマイチ』

 『仕事も 家も 変えられる だけど 好きな 選手と 好きな ポケモンは 変えられない』

 街の隅っこに立つ、話しかける必要のないNPCの台詞がこれである。オタクとしてはまさに膝を打ってしまう言葉がそこかしこに散りばめられているのだ。だから、チャンピオンを倒した直後についこんなことを呟いてしまった。

 『ポケットモンスター ソード・シールド』は、アイドルオタクとかポケモンオタクとか関係なく、僕という人間が持つ"オタク"というより汎化された性質が、見事なまでに刺激される作品だったように思う。僕自身がその刺激によって受けた影響については、別の文章として残しておくこととする。

clamperl.hatenablog.com

 「ポケモンの新作、めっちゃ面白かったからオススメだよ!」

 僕には、このひと言がなかなか言えない。現実的な話として、この言葉はSwitchの本体とポケモンのソフトを購入するという3万円程度の買い物に対する勧誘である。買い物を勧めた相手が、出費に見合った経験だったと感じ取ってくれる保証はなく、それに対して僕自身が責任を持てないからだ。だから、直接誰かに干渉することのない、誰に向けるでもない願望として「プレイしてほしい」と独り言のようにつぶやくのが関の山といったところだ。

 そもそも、好きなものを誰かに勧めるという行為は難しい。自分自身にとって、それを好きだと思うことはあまりに当たり前で、それを好きではない人の気持ちが想像しがたいからだ。「この部分が良い」と主張したところで、それが「好き」に結びつくかどうかは個々人の持っている価値観次第であって、結局のところ、僕は僕にしか上手にプレゼンできないのだろうと思っている。

 他人の感性はわかりようがないし、自分の感性とはどこか異なるものである。だから、勧めるべきものも勧める方法も、他人にとってのベストをピンポイントに当てることは不可能に近い。ただ、あえて一筋の希望を信じるのであれば、僕と誰かがほんの少しの共通する部分を持つことだってあるはずなのだ。それなら僕は僕自身に勧めるようなつもりで、好きなものについて語ろう。これがきっと、いちばんマシな勧め方だ。