→2019→

 「やけにぴったり電車が来るね」

 「急いでないときに限ってそうですよね、無駄に運を使っちゃってる感じがします」

 和気藹々と山手線に乗り込んできたスーツ姿の2人組が、ドア脇でぼんやりと年末年始の予定について考えていた僕のすぐ横に立った。言葉遣いと見た目から察するに、上司と部下なのだと思う。車内は少し混んでいたが、若いほうが先に乗り込んできてうまいこと2人分のスペースを確保し、もうひとりをそこに立たせていた。飛び乗った客でもいたのだろうか、ドアが開いたり閉まったりを繰り返している間に、僕の頭は勝手に別の思考をスタートさせる。

 (......この人の「無駄に運を使っちゃってる」という発言には、自分自身が使える幸運の絶対量は決まっているという前提が存在する。だから、幸運はここぞというときにだけ使いたいという発想に至り、そうでないときに使うのが無駄だと捉えるわけだ。運を使った、ではなくて、使っちゃった、という表現になるのも、そのタイミングで運を使うことに相対的なデメリットを感じているからだ。とりあえず、この人は運という概念に対して、そのような考え方を持って生きている。あるいは、話し相手に向けてそうやって生きているふりをしているのだろう。

 一方の僕としては、幸運の絶対量が決まっているとは思っていない。もしかしたらこれは、僕自身の運が猛烈に良いゆえに振り回していられる、なんとも身勝手な思考なのかもしれない。ただ、幸運に幸運は重なるものだし、ある幸運のおかげで次なる幸運に巡り会った経験だって一度や二度ではない。となると僕にとっての幸運は、幸運の予兆のようなものということになるのか......)

 上司と部下の2人組は、僕の横で途切れることなく喋っていた。電車はドアを開閉していた分の遅れを取り戻そうと、慌てたように駅を発車する。同じく急発進した僕の思考もそのままズンズンと進んで行き、相変わらず運の良かったこの一年間を振り返り出す。

春の始まりについて

 2月までの自分が何をしていたのか、その記憶はほとんどない。記憶がないというより、おそらく特段何もしていなかったのだろう。きっと家から出る元気がなくて、熱心にゴーゴーファイティンの画面と向き合っていたのだ。だから、僕の2019年タイムラインのいちばん上には、3月末の東京ドームの鮮やかな景色が輝いている。

 30日の公演に参戦予定だった。TWICEのパフォーマンスは流石に肉眼で見てみたいよな...という心の声が、ハイテンションな人だかりという苦手意識の塊みたいな場所に自ら飛び込む覚悟を決めさせたのだ。要するに、初めてのアイドルのコンサート。しかも一人。どれだけ楽しみにしていたイベントでも、直前にはちょっとだけ行きたくなくなるものだ。目前に迫るにつれて解像度が上がり、前日にもなると細かな面倒くささが目につきはじめるからである。初めてのコンサートなら尚更だろうと思っていた。

 「参戦予定だった。」この過去形が意味するところは、なぜだか29日にも参戦することになったという話であって、これがいわば今年の1stWinである。幸運なことに、自分の元へ29日の連番チケットが舞い込んできたのだ。そうそう、初めてのときは誰かと一緒に行くべきなのだ。これまでもそうしてきたんだから。AKBの握手会は無券で知り合いに会うだけの練習期間を設けたし、TWICEのハイタッチ会初参戦は券を1枚譲ってまで道連れを探したのだ。

 いや、東京ドームの2日間はめちゃくちゃ楽しかったな。今まで行かなかったのを後悔するということはなくて、そのタイミングが初参戦で正解だった。すぐさま感想を誰かとぶつけ合えるのはよかったし、おかげで単独参戦の翌日もリラックスして楽しめた。というか、夢についての話をするMCが日替わりで、29日担当の推しの話を聞けたのは奇跡。本当にありがたい。そう、この日を境に少しばかり元気になったかもしれない。春だね。愛とはどんなものか知りたい季節。

 

 

「行きに買った緑茶、あれ濃くてウマいね」

「良かったです、駅ナカで売ってるのだと最近はあれがいちばん好きですね」

 季節が途切れて電車のドア脇にふと意識が戻ったとき、例の2人組の話題はお茶に移っていた。(......「良かったです」か、すぐに思いつかれるのは部下が上司にオススメしたパターンだけど......)耳に入ったどうでもいい世間話は、いつも気ままに思考のリソースをくすねていく。

 そういえば、この人の幸運の捉え方から考え事が始まったのだった。そのときに、幸運は幸運の予兆のようなものだ、という言葉が浮かんだけれど、論理的にもあり得る気がしてきた。周囲の音がまた遠ざかる。

 (......幸運に限った話ではないけれど、幸運が訪れた場合と訪れなかった場合、ある出来事が起きた場合と起きなかった場合、何らかの形で行動は変わる。二回の幸運が訪れたとして、最初の幸運によって生じた行動の変化が次の幸運を訪れさせた、というケースがあるような気がする。というか、今年もあったな......)

夏の終わりについて

 6月末を夏と呼んでいいのなら、自分のブログページを作ったのが今年の夏の始まりにあたる出来事だろうか。文章を書いているFFを2,3人見かけて、僕も久しぶりに何か書いてみようかと思い立った。TWICEを好きな理由について書いた。想像よりも多くの人に読んでもらえて感想も聞けた。だから、とりとめのない思考でもたまに綴って、思っているだけで口にしないことが溢れている脳内を整えることにした。

 7月末には『HAPPY HAPPY』のハイタッチ会に参加した。僕が抱えてしまう様々な葛藤も、間近で推しのご尊顔を拝みたい気持ちには勝てない。自引きした分に加えて、これまた運の良いことに参加しないFFの方から券を譲ってもらえたので、推しを含めて4人とハイタッチができた。ハイタッチの後、容姿端麗な推しを久々に至近距離で見た感動について、これでもかとツイートしたような覚えがある。そうしたら、今度は8月に行われる『Breakthrough』の推しのトレカが別方向から舞い込んできた。ありがたく頂戴することにして、ひと月後の再会に胸を躍らせたというわけだ。

 TWICEの集合写真の整列順を調べながら、来たるハイタッチ会のことを考えてふわふわと夏を送っていたら、シブヤノオトの番組協力に当選した。ラッキースパイラルに入っていたので、正直当選する気がしていた。収録日は、ハイタッチ会の翌日。2日連続でTWICEに会えるなんてことある?いや、春の東京ドームでやってたわ。

 NHKホールで最高の夜を体験して、その日が僕にとっての夏の終わりだった。ホールを出たときの夜風と、渋谷の街の景色が今でも身体に刻み込まれている。幸せの風、目もつむれない。本当にいい夏だった。どうか続いてほしかった季節。

 

 

 電車がブレーキをかけて止まった。窓から外を見ると、まだ駅には着いていなくて、駅と駅の間の何もないところのようだった。周りの乗客もスマホから顔をあげて、キョロキョロと状況を伺っている。上司のほうがよろけて、部下に体を支えられているのが視界の端に映った。ドアの窓からは、綺麗な青色のイルミネーションが見えた。(......以前よりも寒色のイルミネーションが街に増えたように感じるけれど、LEDの色味の関係で暖色よりも電力消費を抑えられるのだろうか......)少しして、安全確認のための一時停車だという内容の放送がかかり、車内の機嫌が悪くなる。青色の規則的な点滅を眺めながら、ここで止まっただけ良かったなと思った。暇なので考えごとに戻る。

 (......自分を不運だと思う人間より、自分を幸運だと思う人間のほうが幸運は訪れやすい。同じ出来事を経験しても、捉え方や印象の残り方が変わるからである。この一時停車をとってもそうなのだろう。イルミネーションの目の前で良かった、と僕は思ったが、僕が自分を不運な人間だと自覚していたら、イルミネーションなどそっちのけで、乗った電車が一時停止してしまった、という認識でこの出来事を切り取っていたかもしれない。やっぱりついてないな、とため息を漏らしたかもしれない。幸運なんてそのくらい不安定な代物だ。誰かから見れば不運な出来事も、ときには幸運な出来事になりうるわけだ......)

秋の長さについて

 僕は名残惜しさすら覚える夏を過ごしたわけだけれど、一般的に見てTWICE濃度の高かった季節は秋だと思う。9月末を秋に含めるのであれば『Feel Special』が公開され、TWICELIGHTSの日本公演がスタート、11月には『&TWICE』がリリースされた。メイキング映像が大好きなオタクとしては、リリース後に供給される数多のコンテンツを糧に日常をやっていたような覚えがある。それから、改めてTWICEの好きなところについて考え直していた気がする。

  TWICELIGHTSは幕張公演の2日目に参戦した。もちろん楽しかった、楽しかったのだけれど、もう一度見せてくれと思った。大量のそうめんが次々と流れてくる流しそうめんがあったとしたら、満腹になるまでたくさん食べられるけれど、その傍らに自分の箸が掬いきれなかったそうめんもたくさんあって、そのことが気になってしまう。誰にも伝わらないと思うけれど、もう一度見せてくれという気持ちはそれと同じことなのだ。

 この頃、当時オーラスと言われていた静岡公演に落選した。これは不運に見えてそうでもない。あとになって、結果的にはむしろ幸運寄りの出来事だとすら感じた。新たなオーラスとして東京ドーム2daysが設定されたからである。東京ドーム2daysは、僕にとって言うまでもなく大事な公演だ。幕張公演の帰りの電車で申し込んだ。無事、両日当選。2日連続でTWICEに会えるなんてことある?これでようやく3月まで生きる気力が湧くというものだ。

 それから、TWICEとは直接関係ないけれど、11月中旬にはポケモンの新作が発売された。好きなもので満ちた自分の部屋にいることはとにかく幸せだ。動画を見たり、音楽を聴いたり、ゲームをしたり、いつもに増して家にこもった。どっちも選ぶ秋だった。楽しいことが2倍になる季節。

 

 

 安全確認が済んだと車内放送が入り、電車は再び動き出した。車内の空気も安定する。遅れを取り戻すのを諦めたのか、はたまたこの列車自身のせいではない遅延に取り戻す義務感を失ったのか、先程とは違ってゆっくりと走っている。駅ではちょうどよく来たものの遅延してしまったこの電車に乗り込んだことは、件の二人組にとって幸運だったのだろうか。そもそも、電車が駅にちょうどよく来ることは幸運と言っていいものなのか。僕の頭はストーリーを組み立てる。

 (......「やけに電車がちょうど来る」とか言っていただろうか、この「やけに」は複数回、感覚的には3回以上から使う言葉だ。つまり、この2人組は最低でも3回目の乗り換えだったはず。2人が行き帰りをともにしているのはお茶の話からわかるから、2回の乗り換えが行きで、これは3回目か?待て、お茶を部下が勧めたのなら、買い物に誘ったのも部下の方かもしれない。それが乗り換えの最中の出来事だとしたら、部下が電車の発車時刻をあらかじめ把握したうえで、買い物はうまいこと時間を調整することができる手段として使える。しかも濃いお茶だったっけ、カフェインとカリウムの含有量が多いから利尿作用が特に強い。1回目の乗り換えを買い物で、2回目の乗り換えをトイレに寄ることで調整した可能性はないだろうか。

 2人分のスペース確保も部下は鮮やかだったし、立ち位置も進行方向に合わせて決めたのかもしれない。急ブレーキがかかった場合に、自分が上司の方に倒れないように。それなら幸運に見える出来事も、すべて論理的に導かれる必然である。運なんてこれっぽっちも「使っちゃって」いないわけだ。この人が、緻密な計算を繰り返してラッキーボーイのふりをしている人間だったら最高だな......)

 答えの出ない推理をしていても仕方がない、と我に帰る。ただ、一連の思考のおかげで、幸運にはそれを作り出す大元が存在する可能性があることに気がついた。では、僕の場合は?僕の最大の幸運であり、また今年のすべての幸運の大元は、TWICEというアイドルを好きでいられたことなのだろう。

冬の短さについて

 去年の冬は、無邪気だった。綺麗な装丁の『The year of Yes』のアルバムをワクワクしながら受け取った。年末のステージを待ち望んで、9人の素晴らしいパフォーマンスに歓喜した。

 今年の冬は、考えることが多い。ひとつひとつをあえて挙げるつもりはないけれど、好きでいるにもとりあえず好きのあり方を見つめ直すような場面が多々訪れる。事が起こるたびに、自分も責任の一端を担う存在なのかもしれないと思わされる。

 このどちらが僕のいま過ごしたい冬なのかと考えたときに、どちらも違うという結論に至った。綺麗なところ、明るい角度だけを見ていることは僕にはできない。やたらと物思いにふけってしまうから、現状に鑑みてそれは無理な話だ。一方で、その楽しさを捨ててずっと考え込むというのもあり得ない。アイドルは人々を魅了するためにステージに立つ。その意義を無下にするのは本末転倒で、楽しませようとしてくれる思いだけは素直に受け取りたい。

 要するに、両方必要だと思った。なおかつ、この両方を区別すべきときにはちゃんと区別できるようになりたいと思った。アイドルが抱えている問題、あるいはそれを受けてのファンとしてのあり方、そういうものは答えが出なくとも自分なりに考えるべき対象ではあると思う。意見や立場が少しでも明確な方が、自分自身としても視界がクリアになる気がするからだ。ただ、ステージでのパフォーマンスや、彼女たちが提供してくれるコンテンツは、どんなときでもその場では目いっぱい楽しみたい。楽しみたいから応援しているわけだし、楽しめるから好きなのだ。

 「光が強い」の対義語は「影が濃い」だろうか。僕は、「光が強い」の対義語は「光が弱い」だと思う。そう考えれば、強い光は濃い影とも同居することができることになる。濃い影は別に光を弱める意味を持つわけではなくて、濃い影が落ちたとしても光は強いままで保っていられる。そういうことだ。夜が長い冬も、朝日は目に痛い。December、この1年が終わりを迎える季節。

 

 

 数分の遅れとともに、電車が僕の降りるべき駅へと滑りこむ。さっきまで寄りかかっていたドアが開き、僕と入れ替わるように冷気が車内に乗り込んだ。あの2人組の片方は僕と同じくここで降りるようだった。(......別れるということは会社に戻らずそのまま帰宅か。忘年会もまだ今日ではないらしい......)僕も乗り換えだ。ちなみに、乗り継ぎのいい電車を選んで帰っているから、今日は遅延した分ちょうどよく電車が来ないことはホームに行かずとも分かっている。お茶でも買おうか。

 なんとなく、イヤホンを取り出して音楽を聴くことにした。アーティストの一覧からTWICEを選択する。ランダム再生でいきなり『Feel Special』が流れ出した。この曲を聴いていると、ミルフィーユのように何層にも重なる思考を区別しきれなくなる。多分、あえて区別しなくてもいい場面なのだろう。

 初めてMVを見たあのときのことを思い出す。(......彼女たちは今このときをどう過ごしているのだろうか......)受け止めきれないほどのTWICELIGHTSのステージも目に浮かんだ。最後の一列に並ぶダンスパートを想像して高揚する。この曲について書かれた誰かの文章を読んだ日もあった。(......これこそ愛の歌だと思わされる......)来年の東京ドームでは、どんなステージが待っているのだろう。(......Again I Feel Specialしたいな......)改めて、今年も色々あった。

 あらゆる層から連想される思考によって、頭の中が溢れかえってしまうようだ。今年も終わりに近づいて、ようやく区別できるようになってきたというのに。

 僕の思考も、一年の四季も、山手線のようにぐるぐると巡って終わりがない。もうすぐ新しい年が始まろうとしている。僕は抱負なんて立派なものを持てるほどしっかりと暮らせてはいないし、そもそも基本的に目標のようなものを僕は立てない。未来に何が起きるかなんてわからないから、明日死ぬかもしれないと常にどこかで思うようにしている。逆に生きている間の大抵のことは、運よくなんとかなってくれるだろうし。それでもあえて、新しい年に向けて何かを掲げるとしたら。

 そうだな、推しに幸せでいてほしい。