「いい話」

 この世界には「いい話」と呼ばれる物語が存在する。

 小さな日常の一場面を切り取った心温まる「いい話」もあれば、長い時間の経過を伴ってクライマックスで涙を誘われる「いい話」まで、規模や種類には様々あるわけだが、特に後者の「いい話」の生まれ方には、簡単なルールが存在するのではないかと思う。どうやったら物語が綺麗にまとまるか。どうやったら感動する流れになるか。それを決める材料とシステムがあるということだ。性格が悪く聞こえると思うが、最近そんなことについて考えている。

 

 僕が思う「いい話」の材料はふたつだ。ひとつはハッピーエンドで、もうひとつはその結末に至るまでに経験する苦境である。

 「いい話」が「いい」と言われる所以は、その物語を摂取した後の感情状態に大きく依存している。だから、じんわりとした余韻や清々しい後味を喚起するハッピーエンドは、「いい話」においては重要な要素であると思う。逆に言えば、バッドエンドの物語があったとして、それを「いい話」と表現するだろうか、ということである。その場合はどちらかというと、例えば「深い話」とか「考えさせられる話」とか、そういった呼称の方が適切だろう。例外はあるかもしれないが、とりあえず結末が与える物語全体への印象は大きいはずだ。

 それから、苦境のないハッピーエンドもこれまた「いい話」と呼ぶには物足りない。一度たりとも挫折しないただの成功物語を見せられても、人々の心は動きにくい。むしろ、場合によっては嫉妬さえ生んでしまうかもしれない。幾多の壁を乗り越えてこそ、あの苦難を跳ね返してこそ、といった幸せな結末との高低差が必要なのだ。だから、途中の苦境も「いい話」には欠かせない要素だと言える。とはいえ、この高低差を欲する心はなかなかに残酷だと僕は思っている。高低差を欲する心とはすなわち、強い苦境を求める気持ちだからだ。「いい話」として扱っているその物語が、誰かの人生であった場合はなおさらである。

 

 さて、僕がなぜこの文章を書いているかというと、「所詮いい話なんてこんなカラクリだよ」などと冷笑したいわけではなく、はたまた「この方法を使ってみなさんもいい話を書きましょう!」などと教授したいわけでも勿論ない。この文章を書いたのは、「なんか『いい話』ってパッケージ、全てを美化する最強の力では?」とふと思ったからだ。

 「いい話」には、ハッピーエンドが必要だと書いた。ただ、事態をより正確に言うと、ハッピーエンドさえあれば、そこまでの過程が「いい話」にされてしまう。ハッピーエンドまでの過程にある苦境は全て「いい話」の一部として、良かったことや美しいことにできるのである。その部分だけ切り取ればとてつもない困難だったとしても、結末までをセットで丸ごと渡されると「いい話だなぁ...」で終わってしまい、途中の苦境に対して鈍感になるのだ。

 具体例を使って話そう。SIXTEENのモモ脱落、からのデビュー。まさしく「いい話」である。言い忘れていたけれど、僕は別に「いい話」が嫌いなわけではない。それだけは念を押しておきたい。だから、SIXTEEN最終話を見たときは(TWICEを知った後で見たので結末はわかっていたものの)感動的だと思った。ただ、モモの脱落は、少なくともSIXTEENという番組内に限定すると、他の脱落とは同一視されないわけだ。デビューというハッピーエンドによって、デビューできなかった他の参加者と同じだけの精神的ダメージを負ったはずのその脱落は、「いい話」の一部として扱われるのである。 

 

 これは誰が悪いとかそういう話ではない。人間の脳のシステムとして「いい話」を受け取るとどうしてもそう感じがちだよね、という確認である(人間の脳などとだいぶ大きく出てしまったが、おそらく僕だけではないと信じている)。綺麗にまとまっているものは、つい全てが綺麗だったように思えてしまうのだ。

 そして、この「綺麗にまとまっている」という表現は、さも誰かがまとめたかのような言い方だけれども、別に僕たちは完成されたコンテンツだけを「いい話」とするわけではない。誰かの輝かしい瞬間を見て、過去の薄暗い時間を振り返り、今と見比べる。そんなふうに、誰かの人生の一部に「いい話」を見出そうとするわけだ。つまりはそう、かく言う僕自身も、苦境とハッピーエンドを結び付けようとしてしまう「いい話」の仕立て屋なのである。

 そもそも、さっきから結末だのハッピーエンドだの言っているが、これはわりと見る側の身勝手だ。ドキュメンタリーのように誰かの人生を対象としている場合、その人生の中のある瞬間で一旦物語を切り上げているから、結末が生まれているのだ。一例としてあげたデビュー決定はオーディション番組の結末であって、決して人生の結末ではない。デビューできたらそこから再びTHE STORY BEGINSするわけだし、それゆえにまた新たな苦境も経験し、ハッピーエンドとみなされる何らかの瞬間を迎えるということを繰り返す。要するに「いい話」というのは、結末らしき瞬間を基準にして、僕たちがうまく切り取ることで生まれている。

 

 ここで前半の話に戻るのだけれども、「何かを『いい話』として切り取ったばかりに、全てが美化されちゃうなぁ......」と最近の僕は考えているのだ。全てが美化されるというのは、雑に言い換えるならば、結末の良さに細部の印象が持っていかれるという意味だ。全体に対して何か思ったことをひとつだけ呟こうとすると、各シーンに対して生じたはずの色々な方向の感情を取りこぼしているような気分になる。自分の納得できる形でまとめられるならともかく、感じたことを綺麗な形に集約しようとする行為が、僕にはむしろどうにも物足りなく思われるのだ。

 だからこの頃は、あえてバラバラな状態の、それぞれの場面に対する、刹那的な感情を意識するようにしている。この出来事が面白かった、あのカットでときめいた、みたいな。僕の思考の癖として、それが「いい話」になるかはともかく、時間の流れに何らかの意味や物語を編みあげようとしてしまうのだが、もう少し断片的な出来事を大事にしてみたいのだ。コース料理を頼まずに、アラカルトで味わいたい日だってある。デザートの味に引っ張られすぎないためにもね。アラカルトにしか無いメニューだってあるかもしれないし。

 

 カムバ前日、というか日付も変わりそうな時間になっているので、高揚感の真っ只中にいる状態でこれを書いている。そんな中で、この曲にもきっと色々な意味づけはできるけれど、ある意味もっと適当に受け止めたいとも思っているわけだ。確かに『MORE & MORE』は久しぶりの"完全体"でのカムバックである。それは本当に嬉しい。いや本当にね。でもあえて言うなら、久しぶりではなかろうが、素晴らしいカムバックには違いない。別に「いい話」にしなくとも、過去と比較しなくとも、絶対的に良いものであるはずだ。例えばそういうことを言いたかった。

 まずは、今ここにある瞬間を楽しみたい。言ってみれば、それだけの話だ。

 ......なんて最後で格好つけると、ハッピーエンドっぽくなっちゃうよね!

 

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。