僕は石ころでありたい

 その朝の空が清々しいほどに澄んでいて、車窓からはあちらこちらに満開の桜が見えたことだけは覚えているけれど、その数時間後に迎えた推しとの初めてのハイタッチは綺麗な春景色も霞むような凄まじい出来事だったのを今でも思い出す。もしかしたら、あれは世界が霞んだ瞬間の記憶なのかもしれない。TWICE第二章、シングル2週連続リリース、ハイタッチ会の季節がいま再びやってきた。

 運の良いことに、今回も推しとのハイタッチが叶うこととなった。優しい世界に感謝。僕がハイタッチ会に行きたいと思うのはやっぱり、推しを近くで見たいから。あの美しさを至近距離で拝見できる機会なんて滅多にない。顔の話ばかりで申し訳ないけど、僕の「好き」ベースはそこにあるから許してほしい。それ以外だと、一瞬でも触れることで実在することを再認識したいという気持ちも少しある、かな。

 

 こんな前振りになってしまったが、僕はハイタッチ会の思い出を滔々と語りたいわけではない。ハイタッチ会の話はやるにしても29日を迎えた後にしようと思う。今からするのは、もう少し複雑で、分かってもらえないような話になる気がする。

 さて、正直なところ、僕の中には「10秒の握手会1回と2秒のハイタッチ会5回だったら後者を選ぶ」という気持ちが確かに存在する。これは言語の壁とかそういうことでは一切無い。数年前、日本のアイドル(まあ彼女も今や韓国アイドルになったのだけど) を推していたときからそう思ってた。共感してくれる人がいるのかすら想像できないけれど、とりあえずこの気持ちについてここに書かせてほしい。

 

 前提として、この文章のタイトルにも書いたように、僕は好きなアイドルに対して、あるいは好きなもの全般に対して、石ころのような存在でありたいと思っている。要するに、存在感の薄いもの、そこにあっても気にも留めないようなものってことだ。「空気のような存在」と言ってしまうと、気にしないけれど必要なもの、というようなダブルミーニングで捉えられかねないので、あえて石ころと書いていることをここで断っておく。

 少し話を戻して、握手会とハイタッチ会の違いについて考えてみると、それは会話の有無だと僕は思っている。2秒でも話せるには話せるけど、それは十分な意思疎通、やりとりであるとは言えなくて、まとまった時間が与えられる場合とは間違いなく異なるものだ。そう、何が言いたいかというと、同じ時間だけ推しを拝めるという条件のもとでは、石ころであるために推しとの相互作用である会話が無い方を選びたい、そういうことだ。

 

 また面倒なことを言うけれど、この選択は「推しと会話したくない」とは別物であるということも一応わかってほしい。好きな人のことは知りたいし、自分の発言にどんな返答をするかも気になる。ナヨンさんに一笑に付されたくもある。ただそれは、決められた短い時間に無理やりパック詰めした会話で満足できるものだと思っていないし、そもそもアイドルとファンという関係性の上に期待していることではない。

 関係性という観点から説明を加えると、例えばイベントの中での自分は、ブースに流れ込んではすぐに消えていく大勢のファンの中の一人という位置付けがちょうどいいと思っている。そして、その位置付けには安心感を覚える。もっと言えば、推しに認識されたいと思わない、かつ近くで見たいだけという気持ちを突き詰めると、自分が透明人間になってブースを通過するという方法でもほぼ同等の満足感を得られる気がしている。むしろ理想的かもしれない。

 

 なぜそう思うかという理由には、僕自身も最近ようやく思い当たった。それについて考えるために、「好きになった瞬間」まで一度立ち返らせてほしい。

 自分が何かを好きになる、(好きなものなら何でもいいけど) 僕の場合はTWICEを例にとろうと思う、自分がTWICEを好きになる前と後で明確に変わったもの、それはTWICEという存在に僕自身がコミットするようになったことだ。具体的に言えば、イベントに参加するようになったことであり、CDを買うようになったことであり、ツイートするようになったことである。そのコミットがなければ、ダヒョンさんのサイン入りチェキも、僕じゃない誰かの手に渡っていただろう。

 でもよく考えると、僕が好きになる前や出会う前から、TWICEは僕にとっての「好き」要素を持った状態でこの世界に存在していたわけだ。それに僕の方が気づいていなかっただけだ。というか、その存在に「気づいた瞬間」こそが、僕がTWICEを「好きになった瞬間」なんだと思う。つまり、好きになる前の、僕が一切コミットしていない段階のTWICEは、僕の「好き」を刺激する絶妙なバランスを保って確かに存在していたことになる。

 

 ところで、あるアイドルがラジオで「結局、好きになった瞬間が好き」と言っていたけれど、これは本当に正解で、「好きになる瞬間」はそこに「好き」が無ければ絶対に発生しない。好きじゃない状態から好きな状態へと遷移する、そのとき背中を押したものが存在しなければいけない。その一瞬には、間違いなく純粋で絶対的な「好き」があるのだ。

 そう、石ころでありたい気持ちとはすなわち、この絶対的な「好き」を感じた最初の瞬間に保たれていた絶妙なバランス、これを保っていたいという気持ちだ。同時に、僕のコミットがバタフライエフェクトを引き起こし、そのバランスに何らかの変化をもたらしてしまうのではないかという杞憂もあるかもしれない。何にせよ、僕がコミットしなくても、何も言わなくても、その魅力を全く経験しなくても、さらに言えば僕がいまだにTWICEを知らなかったとしても、TWICEは最高の形でちゃんと存在してくれるわけだ。そこに必要以上に踏み入ることなく、少し離れた場所から眺めていたいのだ。

 

 この気持ちを別の角度からざっくりと言い換えれば、推しあるいは好きな人たちに思いのままに生きていてほしいってことになる。僕の感情なんか関係なく。こっちはこっちで勝手に「好き」をやってるから、あなたたちはやりたいことをやってくれ。これに尽きる。僕にやれることなんて、Twitterに向かって「好き」だの「かわいい」だの毎日のように叫び続けることくらいだ。決して届かない声で。

 限られたタイミングではあるけれど、アイドルの目に留まる場所でファンが発言できたり、何らかの手段を使って声を届けようとしたりすることもあると思う。やっぱりそこに対して僕は手が出にくいけれど、やるとしてもそういう場面で投げかける「こうしてほしい」「こうなってほしい」が、アイドル自身のやりたいことや自由な言動を縛るものではありたくないと思っているし、自分本位な内容でもありたくない。そう、姫カットへの周りからの意見を「私がやりたいから」でぶった斬るモモさんは最高。周子瑜さんの前髪についても助言してくれてありがとう。

 

 ハイタッチ会という切り出しから随分遠くまで来てしまった。ここまで書いてきたのは、あくまでも僕が好きをこうやって持ち続けていたいな、というだけの話であって、そこに正しさみたいなものはない。ファン全員がこのスタンスだったらそれはそれで色々と立ち行かなくなるだろうし。周りの人たちが何を思ってアイドルのファン、あえて言うならアイドルオタクをやってるのかは少し聞いてみたいかもしれない。

 最後に、ハイタッチ会めちゃくちゃ楽しみ。生きている実感がここにある。東京駅の京葉線乗り換え、浮き足立ってて短く感じるんだろうな。今のところ、この文章に登場したメンバーとハイタッチする予定でいます。

 ここまで読んでくれた皆さん、ありがとうございました。